小学校の道徳の教科書が話題になっています。
隣の町で地震が起きて、ポンタくんが地域の仕事を手伝ったところ、
町長からごほうびをいただきました。
だけど、ポンタくんはこう言います。
「ごほうびがなくても仕事を続けたい」
そのあとに「だって」とあって、理由を自分たちで考えるというのが課題。
詳しく知りたい方はこちらをどうぞ。
Twitterでは、批判的な意見が多いです。
「タダ働きを推奨するのか」と。
たしかにブラック企業と言われる企業は、やる気や忠誠心を盾にタダ働きを要求します。
いわゆる「モラハラ」に近い部分もあると思います。
断りにくい。
見返りを求めず、「集団に尽くす」行為を尊いという考え方があります。
これは、宗教によっては「神への奉仕」と考える人たちもいて、
それだと「わたし」と「神」との関係になりますから、メンタル的にはわりとスッキリしています。
「神」ではなく「集団」になると、ややこじれる。
同調圧力みたいなものが生まれるからです。
ポンタくんも、自分がやりたくて続けるなら、それでいいと思います。
だけど「ごほうびがなくても仕事を続けたい」という言葉が、
本心なのかどうか。
つまり「ごほうびはいりません」が、謙譲の美徳的な価値観にもとづいていて、
なんとなく「そうした方がいいんじゃないか」と思い込んでいるとしたら問題です。
そっちの方が周りから褒められるんじゃないか、評価が高いんじゃないかと思っていると危険なんです。
褒められたくて、行為がどんどんエスカレートすることもあります。
やがて自分を見失います。
「断りにくい」としても同じです。
町長の気持ちを忖度して、「ごほうびなんていりません。僕にこの仕事をやらせてください」
と言っていると、やがて自分を見失う。
それが、ブラック労働が起きたり、日大アメフト部のような問題が起きたりする背景にあると思います。
無償でもやりたいことって、いっぱいあります。
人の役に立ちたいという気持ちまで、お金に変えることには抵抗がある。
道端のゴミを拾う、落し物を交番に届ける、席を譲る。
そういうことは、誰もが見返りを求めず自然とやることですが、
それより規模が大きく、期間が長く、定期的になってくると別です。
それは「仕事」
親切でやることと仕事の線引きは必要だと思います。
そして、わたしのようにフリーランスだと、
どこまでが「有償」でどこまでが「無償」かは難しいところがあります。
そこをギチギチに考えるとしんどい。
「わたしと編集者」というユニットで仕事をしていると考えた場合、
必ずしもわたしの仕事ではないけれど、今ついでにわたしがやってしまった方が、
ユニット単位で労力は減る、ということに関して、わたしはやるようにしています。
考え方は色々あると思います。
編集者がやってくれた方がユニット単位で仕事量は減る、あるいは大した手間でないようなことでも、
「それはライターさんの仕事です」ときっぱり分けて考える方もいます。
人それぞれ。
だけど、何かをやったときに、
例えば、わたしが「その方が編集者がほめてくれる」「感謝してくれる」みたいな気持ちがあると、ダメです。
その気持ちが、やがて自分の負担になるんです。
相手の人は、わかってくれているのかな?と思うようになる。
その不満は、どんどん大きくなってゆきます。
「尽くす女」って、本当の意味での尽くす女はあまりいません。
だいたいみんな、それを相手にわかってほしくてやっています。
「いい女」と思われたい。
「おまえのおかげ」と言われたい。
評価されたいんです。
夫婦になってくるとまた違うかもしれませんが、
恋愛関係の場合は、そういうことが多いです。
尽くす女は、鬱憤がたまる。たまりがち。ためがち。
最初は純粋に親切だったのに、
次第に「わたしはこれだけのことをしてあげている!」となってしまうことも多い。
お互いしんどい。
要は、自分がやりたいかどうか、です。
ほめられなくても、感謝されなくても、自分はやりたいのか。
わたしは、編集者との関係で、仕事のプラスアルファの部分は、
ほめられたいとか感謝されたいとか、そんな気持ちではなくて、
できる範囲のことを、合理的な判断に基づいてやっています。
そこに金勘定は入ってないですし、感情の貸し借りもありません。
この前、ラン友さんたちのウルトラマラソンへの応援もやりたくてやりました。
もちろん、仲間たちが喜んでくれたらうれしいけれど、
「感謝されたい」的な気持ちは全然なくて、
ウルトラマラソンに興味があるし、行ってみたい、と思ったのです。
だからとても楽しかった!
家庭内の仕事は、これまでずっと家事、育児の9割を担ってきました。
これについては、やりたかったわけではないですよ。
経済的に報われれているとも言い難い。
でも自己犠牲ではありません。
状況を総合的に判断して、わたしがやるのが一番手っ取り早かった。
やるべきことを淡々とやってきた感じです。
だから「わたしは家庭のために尽くしてきた」とは思っていないですし、
なんでわたしばっかり!とか、わたしは損している!というのもありません。
だから、わたしがポンタくんなら、
「だって、やりたいから」と答えます。
「だって、みんなの役に立ちたいから」とは言いません。
みんなの役に立つことがわかっていたとしても、それ自体を動機にはしない。
判断の基準を、自分の内側にもつことが大切なんじゃないかな。