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ライター今泉愛子のブログです
人間は反省しない生き物なのかもしれない

人は変化を嫌います。

ご近所とうまくいかなくても、引っ越しするよりそこで我慢しがちだし、転職も躊躇する人が多い。

仕事や家事にしても、同じやり方を好みます。

同じであれば、結果がだいたい読めるから、安心感がありますよね。

 

外部環境だけではなく、自分自身の内面に対しても変化を嫌います。

自分を変えたくない。反省したくない。

何があっても「自分が悪い」とは思いたくない。

 

連続陽樹誘拐殺人事件の犯人で死刑になった宮崎勤の取調室でのやり取りを記録した、安永英樹著『肉声 宮崎勤 30年の取調室』(文藝春秋)という本を読んだ時、人は基本的に反省や後悔はしない生き物なんだと思いました。

彼の言葉は、あまりに軽かった。

 

大きな罪を犯した場合、それに見合う反省や後悔なんて、なかなかできるものではない。

重すぎます。

そこまで人間のメンタルは強くない。

 

この本を読む限り、宮崎は、自身の罪に向き合うことができていませんでした。

殺人に対してだけではなく、妹を殴ったとか、万引きをしたことがあるとか、そういうことに対しても反省するという態度ではなかったです。

それは彼が特殊だからではなく、人間が本来もっているもののように思えました。

 

反省とは、ものすごく心に負荷がかかります。

その負荷にどれくらい耐えられるか。

負荷をかけすぎて、病んでしまう人もいますが、本来なら人は、病む前に回避する防衛本能をもっています。

つまり、反省することをやめる。

 

何かがうまくいかなくても、本質的に反省できる人は案外、少ないです。

だましたほうとだまされたほう、どちらが悪いと聞かれれば、たいていだました方だと言うのは、それが他人事の場合。

自分がだました側だとしたら、「いや、信じるとは思っていなかった」と言い訳します。

いじめもそう。

いじめる側は大なり小なり「相手が悪い」と思っているので、何かが起きてもあまり反省しません。

 

会社で、ある人が部下をいじめたとします。部下はつらくて会社を辞めた。

でもその人は自分が原因だと思わないようにします。

「弱いやつだ」「逃げるのか」程度で自分の内面を整理する。

 

かように反省することは、難しい。

だから、夫であれ子供であれ、友人知人であれ、相手に「反省してほしい」というのはエゴでしかありません。

 

で、自分はどうするか。

私もご多分に漏れず、反省しません。

自分に都合のいい理屈を引っ張り出して、納得しようとします。

ランニングもそうですし、仕事もそうです。

 

失敗のパターンというのは、だいたいどの人にもあるような気がします。

恋愛などでは、わりと顕著ではないでしょうか。

あるいは友人関係とかね。

それは反省しないから。

 

ランニングでいうと、私は二足の草鞋を履くことが多いんです。

高校時代は、とにかく学業との両立を顧問からかなり言われました。

「文武両道」というレッテルにぴったりだったんでしょうかね。役回りとして。

 

今は、仕事との両立です。

これがめっちゃ大きなテーマ。

 

私は、こういう状況を、自分の運命的なもののように考えていました。

いつの間にかそういう状況になっている。

わたしが選んだわけではない。

 

だって仕方ないじゃん、仕事だし。

これって最強の言い訳です。

だから反省しない。

「だって忙しいんだから」

以上終わり。

 

でも、そんなふうに反省がないから成長しないんですよね。

自分にとっての「当たり前」にも実は、反省する要素があります。

そこに気がつくかどうか。

 

わたしもやっぱり本気で仕事のやり方を変えていかないといけません。

これは、仕事のためでもあります。

忙しいと言いつつ、だらだらしていることもあるんです。

たとえば、今。汗。

 

もっと先取りしながらやろう。

生産性を上げよう。

厳しく反省して、自分に負荷をかけながら、前に進もう。

 

adidasでかわいいソックスを買いました。

テンション上がります。

 

 

 

 

 

 

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 15:01 | 人生 | comments(0) | - |
悪気はなくても悪いことは悪い

人を褒めるのが、あまりうまくありません。

相手が褒めて欲しいタイミングをたびたび見逃します。

わたし自身の人生に欠けているのはそこではなかろうか。

 

エルメスのバッグを持っている人に「素敵!どこで買ったんですか? 高そう〜」みたいなことができない。

そもそもそれがエルメスのバッグだと気づかないというのもありますし、気づいても「素敵!」という感性が追いつかない。

人を褒めるのって反射神経が大事なのです。

 

褒めないわけではありません。

めっちゃ褒める。

自分がいい、素晴らしい、かっこいい、見事だ、と思ったことは、それこそ反射的に絶賛します。

でもそれは必ずしも相手にとって褒めてもらいたいタイミングでなかったり、褒めて欲しいポイントでなかったりすることも。

 

要するに、自己中心的な褒め方しかできない。

「悪気はない」と言い訳したい気持ちもありますが、「悪気はない」で済んだら警察いらんでって話。

 

あの人ちょっと図々しいよね。でも悪気はないから。

あの人いつも遅刻してくるよね。でも悪気はないから。

あの人いつも自分のことしか話さないよね。でも悪気はないから。

 

いや、それは改善しましょうよ、という話は多い。

相手のニーズを読む!

これ大事。

と、深夜の備忘録であります。

 

2019年もそろそろ終わり。

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 02:07 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |
必要なのはチャンスではなくチョイスー変えることと変えないこと

 

Kindleを眺めていたら、以前読んでいた本がずらっと出てきました。

私が5、6年前に読んでいた本です。

かかなり病んでいた模様ショック

 

自己主張ができない、自分に自信が持てない、我慢してばかりと悩んでいた時期があったんです。

その数年間、なんだかとても行き詰っていましたね。

大きいのは仕事に関する悩みでした。

 

私はいわゆる「いい人」で、どんな仕事も笑顔で引き受け、最大限に努力し、手を抜かないので、

それなりに商売は繁盛していましたが、そこに自尊心が保てなくなりつつありました。

実力を認められている、という感じがしなかったのです。

 

その頃、ずっと一緒に仕事をしていた編集者が独立して仕事を頼まれたのですが、私へのギャランティのレートが「B」ランクだったことがわかって、かなりショックを受けました。

私は夫がいますし「稼がなくていい」と思われがちではあります。

だけど、とても頼りにされていると感じていましたし、かなり無茶な注文にもきっちり答えていた私への評価がそうだった。

ううむ。

 

私はフリーランスですから、仕事ごとにメンバーが変わりますが、

インタビューをしていても、編集者と話をしていても、なんとなくうまくいっていない感が積もっていました。
原因は何か。相手ではなく自分にあることは明らかでした。

 

仲のいい女性同士の心地よいやりとりには、ある種の文化があります。

相手の立場を思いやる。傷つけない。謙遜する。相手を褒める。気配りする。

 

例えば、女友達との待ち合わせに遅れて怒られることはまずありません。不機嫌な態度もない。

謝っても「大丈夫だよ!気にしないで」とニッコリ。

 

多くの女性は男性相手にもこうしたテクを駆使して、男性たちをいい気分にしていると思います。

私はこの女性の文化を仕事の場に持ち込んでいました。

気配りができて、相手の立場を思いやり、褒められても謙遜し、いいタイミングで相手のことを持ち上げる。

もちろん相手が遅刻しても不機嫌な態度なんて出すはずがない。

気配りレベルは、うまい女子のレベルからはかなり劣っていたと思いますが、私なりに頑張っていたつもり。

でもそんなふうに仕事をしてきたものだから、自分の中に自信が全く蓄積されていませんでした。

 

インタビュアーとして、インタビューの場に女性の文化を持ち込むと、相手の話を引き出せません。

「すごい!」といっときゃ男は大喜びするでしょ、というスタンスでは、その先にある深い話に行き着かない。

しっかりとした交流が成立しないんです。

「すごいですね!」と持ち上げて相手の機嫌が良くなってもそれだけの話です。

 

ビジネスの場では、相手が遅刻をしてきたときに「大丈夫ですよ」と優しい女アピールをしても

「この人は待たせても怒らない人」と思われるだけです。

 

女性としての気配り文化が私の足を引っ張っている。

気の利く人と思われているだけでは、階段を上れない。

ずっと「いい人」としてやってきていたので、どこに自分の価値を見出せばいいのかが全くわからなくなっていました。

出世より収入より「自分がつらい」ことが一番問題でした。

そこでようやく、自分で自分をないがしろにしていたことに気づいたんです。

 

これは女性に多い傾向ですが、心優しい男性にもそういうところがあるかもしれませんね。

なぜかいつも人に手柄を持っていかれてしまうような男性は、こういうつらい想いを抱えているのではないでしょうか。

 

私自身のメンタルを立て直すに当たって、上記3冊はたぶん役に立ちました。

3冊も買っているのだから、きっと当時は真剣に読んだんだと思います。

 

だけど、大切なのは自分が心を決めることでした。

「今のままでいいの?」と何度も何度も自分に問いかけて、必死でもがいて、少しずつ自己主張できるようになったんです。

そのあたりのことは、このブログにもかなりたっぷり書いておりますが、

私はあの状態のままだと、今ごろライターという仕事を続けられていなかったです。

 

人生は、選択の連続です。

そして何を選択するにしても、何らかの犠牲は発生します。

私は「変わろう」と思いました。

変わることを選択した。

 

でもこの「選択」を勘違いしていることも多いです。

「離婚」することは選択ですが、逆だとどうでしょうか。

「結婚生活を続ける」ことを、人は自分が選択していると意識していません。

でも離婚しないことで、何かを犠牲にしていることもあります。

 

「転職」もそうです。

転職することは自身の選択だと覚悟しますが、転職しないこと、今の仕事を続けることに対しては無自覚です。

だけどそれだって何かを犠牲にしています。

 

変えることの方が多大なエネルギーを必要とします。

だけど変えないことで、自分自身のエネルギーが知らず知らずのうちに削がれていることもあるんです。

私がそうでした。

あの時、自分を変えようともがかなかったら、私のエネルギーは磨耗してしまったと思います。

 

キプチョゲも言っていました。

「スポーツで成功するために必要なのは、チャンスでなくチョイスだ」と。

スポーツだけではありません。

人生をうまく生きていくために必要なのは、チョイスです。

そしてそれは、どんなことであっても自分の選択なんです。
選択に無自覚である時においてすら。

 

おまけ。

よく言われるんです。

「愛子ちゃんはそうかもしれないけど、普通の人はそんなことできない」って。

でも、そんなことありませんって。

 

今度友だちとの待ち合わせで、相手が遅れてきたときに言ってみて。

「めっちゃ待ったで!」

怒る必要はありません。関西弁である必要もありません。

でもそんなプチ主張だけでも気分が大きく変わります。

なんとなくいい人の仮面を脱ぐことができるんです。

自分らしくのびのびできるようになりますよ。

 

 

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 07:00 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |
不幸との付き合い方

人生に不幸はつきものですが、それとどう付き合うかは自分次第です。

たとえば、ある男性と駆け落ちを決意したとします。

決行は、明日の朝。

荷物をまとめてその時間を待ち、約束の場所に向かう。

ところが相手は来ない。1時間待っても2時間待っても来ない。

彼女はもうもとの場所には戻れません。

離婚届に判を押して置いてきた。許されるはずがない。

 

そんなことがあったとして、その後の人生をどう生きるか。

「裏切られた」と一生恨みを抱き続けて生きるのか、

「いや〜私も若かったのよ」と笑い飛ばして生きるのかは自分次第です。

 

自分はとっておきの格別の不幸を味わったと考えるのか、

あるある、こういうこと、と考えるのか。

 

 

人間は基本ナルシストなので、自分の不幸を特別だと思いたい。

こんなひどい目にあう人間は自分くらいだ。なんて不幸なんだろう。
と落ち込むことは、おそらくある種の甘美さを伴っています。

どこか心地よい。抜け出せない。

 

子どもの頃、何年も入院していて小学校に通えなかったという人が、

中学でうまくいかないのはそのせい、高校でうまくいかないのはそのせい、

社会に出てうまくいかないのはそのせい、結婚してうまくいかないのはそのせい、と・・・

お前、いつそれ卒業すんねん!みたいなことってあります。

 

「私はこんなひどい目にあった」

「俺はこんな辛いことに耐えている」

みんな色々な不幸を抱えていますが、それをいつ卒業しますか。

卒業するかしないかは自分で決めるんです。

それが自分の人生を生きるってこと。

不幸に牛耳られる人生だと一生不幸です。

 

不幸は神が与えた試練だなんて、そんな深刻な話ではありません。

それは聖職者の都合のいい解釈に過ぎない。

自分の人生を生きよう。

 

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 08:23 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |
ラッキーは、どこから来るのか。

週末に、兵庫マスターズの駅伝合宿に行ってきました。

しばらく休養と決めたのが、前日でしたかね。

でも合宿に行かないという選択肢が思いつかず、早起きして兵庫県の香住町に向かいました。

 

車窓の眺めがとても素晴らしいのです。

 

合宿ではサポートに回って、写真を撮ったり、給水をしたり。

何人かの人から「走らないの?」と驚かれて「はい」とニコニコしていたのですが、帰りの電車でようやく

「あれ? もしやこれはキャンセルしてもよかったのかも」と思ってショック

4万円もかけて、走らない。。。

 

一瞬、自分はバカなのかと落ち込みそうになったのですが、それがわたしなんだと思うことにしました。

今度から気をつけようとか、やめる勇気を持とうとかではなくて、流れを大切にするのがわたしの生き方かもしれない。

 

参加を決めて練習計画も考えて北垣監督に相談もして、

参加メンバーも発表になり、豊岡駅までの送迎もお願いして、少しずつ形ができあがっていたのです。

もう参加する方向で、いい感じの流れができている。
それをあえて断ち切らなくていい。

わたしは、人生全般、そういう流れを大切にしているような気がします。

 

仕事でも、自分からガンガン営業をかけたことはありませんが、

何かを提案されたら素直に乗ります。

 

時には、震え上がりそうな仕事もあるんです。

わたしでいいの? というような。

でも謙遜し過ぎない。

 

せっかく仕事を提案してもらったのにスケジュールが合わないこともあります。

とても残念なのですが、それも流れ。

 

気の向くまま誘いに乗って「あら?」と思うこともあるのですが、

今後は、失敗を未然に回避しようと気負うこともありません。

それも流れだし、わたしはまた同じように失敗するんだろうという感じ。

ですが、少しずつ直感は磨かれていくように思います。

 

人とのお付き合いも流れがあります。

一時期すごく気があっていたのに、なんとなく合わなくなる人もいます。

女友達もそうですし、仕事相手もそうです。

でもそこでなんらかの結論を出すことはありません。

また気があう時期がやってくるかも。

 

嫌われちゃったな、と思うこともある。

誤解かも、と悲しくなったりもするのですが、仕方ない。

相手は、わたしを嫌う権利がありますからね。

 

人生で、貸し借りや損得をほとんど考えていません。

この人と仲良くしておいた方がトクだとか、ここに顔を出しておいた方があとあと都合がいいとかってのはない。

だけど、出会いは運命、と思うほどの重さも感じていないんです。
流れるままに生きていく。

 

と、なんだか大きなところに話がきましたが、駅伝合宿に参加して、新しい出会いもありましたし、たくさんのランニング話を聞きました。そういう流れの中で何かが育っていくんじゃないかと思っています。

 

何かが育っていく時って、その「何か」が何かはわかりません。

だいたい収穫って、思いもよらぬところに現れるんです。

 

「駅伝合宿に参加しておけば、選手に選ばれやすくなる」みたいなわかりやすいメリットではなくて、5年後とか10年後とかに思わぬ何かが現れることがあります。

「あの時、ご一緒したんですよ」みたいな人から何かがもたらされたりとか。

あるいは、何かの時に「あの時、こんな話を聞いたな」ということが役に立ったりとか。

ラッキーって、そういうところから来るんだと思います。

 

なので流れは大切にするってことでいいかな。

あまり目先の損得や貸し借りにとらわれないで、もっと大きな何かに委ねていくといいですよね。

 

こういうの、もしかすると「引き寄せの法則」みたいな本に書かれているのかもしれません。

でもわたくし、あれって損得勘定、丸出しだと思うんです。

幸運って「こうすればこうなる」という法則とはまるっきり逆方向のものです。

 

パワースポットに行って気持ちがいいならいいんです。

神社が好きなら行けばいい。

わたしも神社は好き。

でも自分がいい気持ちになることが大切で、そこに行けば運がやって来る、なんてことはない。

そんなことを期待していくのは野暮なんじゃないでしょうかね。

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 06:25 | 人生 | comments(4) | trackbacks(0) |
人生にはピークなんてない

40代の頃、人生にものすごく焦りを感じていました。

自分はまだ人生で何もなし遂げていないのに、もう折り返し地点を過ぎてしまった。

このまま終わっていいの?

 

その頃、わたしの人生のピークは14歳だったと感じていました。

あれ以上のことはもうわたしの人生には訪れない。

 

こんな記事も書きましたね。47歳の時。

 人生のピークはいつ来る?

 

走り始めることで、わたしは新たな目標を見つけましたし、今は14歳の時がピークだったとは思っていません。

だけど振り返って思うのは、「ピーク」という考え方自体が成果にとらわれていたんだということ。

 

何かを成し遂げたい。結果を出したい。

ずっとそう思っていたんです。

 

10代は、競技や学業など成果がわかりやすい時代です。

たぶんわたしは、そういう時代に向いていました。

 

だけど就職して、結婚して、子どもを産んで、あれ? 今、わたしは何を成果とすればいいんだろう、と戸惑いました。

それぞれその時代の何かに夢中になってはいましたが、その「成果」が測れません。

目に見える、わかりやすい成果を求めていたので、普通の人生に戸惑いました。

ずいぶんと傲慢でしたよね。普通の人生ってなんだよ。

 

走り始めることで、過去のいろんなことを吹っ切ることができたような気がします。

挫折の歴史だった陸上競技は、栄光の時代があったことも思い出しました。

母との関係で悩んだこともありましたが、それもどうでもよくなった。

 

だけど大きいのは、成果にとらわれなくなったことです。

わたしのマスターズ陸上ライフは、成果を出せているから楽しいのではなく、

成果なんてただの結果だな、と思えるようになったから元気になれました。

 

結果を出すための努力は続けています。

どうでもいいわけではない。

 

だけど昔みたいに、結果が出せないイコール人生の落伍者、とは考えません。

出るときは出るし、出ないときは出ない。

それが人生。

だけどそのギリギリに賭けるのが楽しい。

 

人生にピークなんてなくて、その時、その時を楽しめばいい。

enjoy という単語は、en-joy、つまりjoy(よろこび)の中に入っていくこと。

からだをうまく使えている時のよろこび。

練習でもレースでも、いい感じで走れると苦しくても楽しい。

タイムが悪くても納得感がある、と同時に課題も見えてくる。

その感覚を大切にしたい。

 

いつもいつも「瞬間」に生きていたら、人生のピークなんて考えません。

そんな長い時間を対象にすることになんの意味もない。

つまり「中今」です。

 

本日も頑張ってまいりましょう!

 

 

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 05:26 | 人生 | comments(2) | trackbacks(0) |
自分は「特別」じゃない

仕事をしていていつも心がけているのは、自分は「平均的なライターだ」と思うことです。

私より上手い人はいくらでもいるけれど、私より下手な人もいる。

だから、威張れるわけではないけれど、卑下するほどでもない。

 

こう思っておくと、わりと精神的に健全でいられます。

褒められて舞い上がることもないし、けなされて落ち込むこともありません。

 

褒められるとうれしいです。もちろん。

でも冷静です。

けなされると気分が悪いけれど、自己否定にはつながりません。

たぶんもっと下手な人も世の中にはいるだろうし、と適当にはぐらかします。心を。

 

よい仕事をするためには、自分の心を健全に保つことが大事。

必要以上に反省しなくていいし、必要以上に「俺ってすごい!」とイケイケ状態にならなくてもいい。

 

私とて、自分の力のなさに落ち込みそうになることはしょっちゅうあります。

もっと上手くできたのでは、と後悔に押しつぶされそうになることも。

 

でも「もっと上手くできたはず」だとしてもできなかったことは事実だし、それは次に活かすしかありません。

なので最近は、後悔したり反省したりしそうになると「おかげで勉強したな」と思うようにしています。

次、行こう。

 

後悔って、要するに自分の力のなさを認められないからだと思います。

自分の力が足りなくてできなかったことを、

いじいじと考えて「こうすればよかった」「ああすればよかった」と悔やむ。

もう勝負はそこでついたの。その事実を受け入れよう。

受け入れて次に活かす。

 

もちろん勝負に運はつきものだし、運がなかったという状況もあります。

実力では勝ってたのに、運が足りなかった、と思いたくなる気持ちもわかる。

 

だとしても、次に運が回って来たタイミングで実力を発揮するしかないわけで。

「自分は運がなかった」と嘆いていても仕方がない。

 

そういう時も自分は平均なんだと思うとわりと納得できます。

私ってもしかすると運が悪いの? と落ち込みそうになっても「いや平均だな」って。

強運の持ち主ではないけれど、悪運だけに支配されているというほどでもないはず。

だからコツコツやっていれば、いつか運は巡ってくる。

 

安室ちゃんと同時代に生まれたシンガーは、どうやったって太刀打ちできなかったかもしれない。

安室ちゃんの人気に陰りが見えたと思ったら、今度は宇多田ヒカルがやって来て、ああもうまったく!っていう世界で、

自分はどう生き残っていくか。

まともに勝負したって勝てる相手でないのは明白です。

 

そこで「私も実力は同じくらいだ!」「宇多田ヒカルは親が立派だし、運がいいだけだ!」とかね、

そんなふうに思ってしまう人もいます。

 

いやいやいや。明らかに実力が違うから。

あなたは平均ですよ。まずはそこからスタートしてみたら? という話です。

そうすると、妙な自己顕示欲から自由になれます。心が楽になる。

 

ちなみに、安室ちゃんが「わたしは天才」と自覚しているかというとそんなことはないと思います。

宇多田ヒカルしかり。

世界を見ればもっとすごい人はいますから。

みんな自分の力のなさと闘っています。

 

宇多田ヒカルは自分の素質に感謝すべきだと凡人は思いますが、

それは凡人だから思うわけで、ご本人はそこまで満足してはいないと思う。

ある程度の自尊心はあっても、100%満足してはいないでしょう。

だからがんばれるわけで。

満足してたら、とっくに終わってます。

 

これは仕事に限らなくて、たとえば母親としての自分に落ち込みそうになったら、

「いや、自分は平均的なお母さんだ」と思えばいいの。

特別なお母さんになりたいと思うから落ち込むのです。

 

「平均的だ」と思うのは、ダメな自分を認めるのとは違います。

平均的なお母さんとして、精一杯がんばる。

それは、ダメな自分を愛して開き直ることとは全然違います。

あなたは「今のままでいい」とは思いません。わたしは。

 

どんどん変化していこう!

ちっぽけでもなんでもいいから、どんどん前を向いて歩こう。

平均的な人生を愛していこう。

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 09:59 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |
主役としての人生を生きる

すべての人間は自分の人生の主役です。

わたしがわたしの人生の主役であると同時に、夫は夫の人生の主役だし、息子は息子の人生の主役です。

一人一役。

 

イケメンじゃないとか、太ってるとか、人付き合いが苦手とか、

目立たないとか、お金がないとか、自分に自信がないとか、そういうことは一切関係がない。

 

単純に、人生の主役としてどう生きるかを考える。

わたしは、わたしという王国の姫だと思っておりまして、

いつもとても威張っています。

わたしの王国ではやりたい放題です。

 

家来もいっぱいいます。

肉体も家来ですし、心も家来なわけです。

心臓も家来で、筋肉も家来。嫉妬心も家来だし、自己顕示欲も家来。

全部わたしの家来なので、どうやったらうまく使いこなせるかを常に考えております。

だって姫だから。

 

他国の嫌なヤツに意地悪されたら、家来が慰めてくれます。

姫、大丈夫です。われわれが付いています、と。

 

そこまで書いてしまうと、変な人ですよね。

そこまでじゃないです。

 

でもなんだろう。

自分に対して自信をもつってそういうことじゃないかと思うんです。

威張ることでもみじめに思うことでもなくて、

自分を愛して、自分が主役の人生を生きる。

 

バカなことはたくさんします。

姫だけど、それは単に姫に生まれたからというだけで、

実力でのし上がった、あるいは美貌でのし上がった姫ではありません。

 

でも家来はいっぱいいる。生まれつき家来がいるわけです。

しかも彼らはわたしでいいと言ってくれる。

彼らはわたし以外の姫も王も知らないわけで、死ぬまで一緒です。

だからなんとか、幸せにしてあげたい。

 

わたしは何の取り柄もないし、何に自信を持っていいかがわからない?

かわいくないし、モテないし、勉強もイマイチだし?

姫は家来をけなしちゃダメ。

これ見よがしにため息つかない。

姫は姫らしく気高く生きる。

 

注意しなくてはならないのは、家来に乗っ取られてしまうことです。

悪口を言うのが大好きな家来もいるわけです。

誰かの悪口を言いだすと止まらない。

そういう時は毅然と「控えよ!」と命令しなくてはなりません。

なかなかいうこと聞いてくれませんけどね。

 

みじめな気分が大好きな家来もいて、すぐに落ち込む。

そういう時は「わらわは姫じゃ」と威厳をもって告げる。

一緒になって落ち込むのは姫の仕事じゃない。

なに文句いうてるねんと。

そんなんしゃーないやんと開き直るしかありません。

 

優秀な家来もいれば、できない家来もいるわけです。

できない家来にくどくどと小言を言わない。

姫がフォローするか、優秀な家来にフォローさせるしかないんです。

 

わが領地は狭くて気候もよろしくないし資金も少ない。

兵力も乏しく、設備もボロボロ。

だったとしても、姫が落ち込んでいたらわが国はどうなるよって話。

 

広い領土をもつ他国の姫をうらやんでも仕方がないし、

家来たちも、姫に「ごめんね」と泣いて謝られたってしらけるだけ。

そんな自覚のない上司、イヤでしょう。

 

わたしの国が、北の果てのアイスランドみたいに小さな国だったとしても

亡命なんかしない。

 

アメリカみたいに自己顕示欲の強い国もあれば

インドみたいにマイペースな国もある。

広い国もあれば、狭い国もあり、人口が多い国もあれば、少ない国もあるけれど、

どこの国にもその国なりの幸せがあります。

 

恵まれているように見える国にもそれなりの苦悩があります。

家来がみんなわがままやねん、とかね。

 

比べないというのは、そういうことなんじゃないかな。

姫としての自覚を持ってわたしの国をうまく治める。

わたしの国がどんなにしょぼくても、わたしが守り抜くしかありません。

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 06:36 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |
何を言うかより、何を言わないかが大事

人は何を言うかよりも何を言わないかが大事だと最近よく思います。

なんでもかんでもすべてを言う必要はない。

 

相手によくわかってもらいたいし、誤解されたら悔しいし、

経緯はちゃんと説明したいし、相手の間違いはさりげなく指摘しておきたい。

言い訳も少しはしたいし、白黒はっきりさせておきたくなることも。

 

古民家で撮影がありました。

 

でも言葉で伝えなくてもわかる人はわかるし、伝わる人には伝わる。

自己主張したいという気持ちは誰もが持っていると思いますが、

それをどう主張するか。

 

言わないことでも主張できるんですよね。

語らないこともある意味では自己表現です。

 

語らないことで、逆にわかってもらえる場合もあります。

この人はこのことについてあえて語らないんだ、とわかってくれる人はいます。

語ることで得られる理解もあれば、語らないことで得られる理解もあるんです。

 

語らないことで、わかってもらえなくても心配には及ばない。

わかってもらいたいというのは、要するに相手から評価されたいということ。

ですが、そんなことをいちいち気にしなくていい。

わかってもらえればうれしいけれど誤解されてもいいし、評価されてもされなくてもいい。

 

わたしはわたしと泰然としていれば、評価への恐れがなくなります。

するといろんなことがどうでもよくなって、前に進みやすくなる。

ずんずん前に進むと、回り回って、いつか評価がついてくる。

それが世の中なんじゃないかな。

 

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 05:39 | 人生 | comments(2) | trackbacks(0) |
アクセルを踏む 倒れるなら前に倒れよう

どんな物事でもそうですが、ググッとアクセルを踏む瞬間があります。

いまだ! ここだ! という瞬間。

 

レースでもそうですね。

うまくいくレースってのはそう。

 

ググッとアクセルを踏む瞬間というのは、レースなら本当にその場の直感ですよね。

監督の指示とかじゃなくて、野生の勘みたいなもの。

 

 

人生もそういう面が大いにあります。

仕事もそうですし、受験勉強とか、恋愛とか、どんなことでもそういう瞬間があります。

今ここでやっちゃおう。思い切り力を出し切ろう。

みたいな瞬間。

感情も理性も超えたゾーンというか。

 

この間も原稿を書いていて、なんとなく「ダラダラ」書いていたんです。

こんな感じで、こんなふうにやれば、この辺りで終わる、という目論見があって、

それに沿って書いていた。

 

でもある瞬間に「これじゃダメだな」と思って。

わたし、本気出してないじゃん。

そこでググッとアクセルを踏んだ。

 

そうすると研ぎ澄まされた世界に入るんです。

とてもクリアな心境と言いましょうか。

走っている時も調子がいいとそういうスイッチが入ります。

 

こういう状態に自分を置くと、ものすごく気持ちいい。

ランでいうと、「走れている」感が半端ない。

いわゆる「集中した状態」なんでしょうかね。

有り体に言えば。

タイムは関係ないです。

 

こういう状態になりたい場合、一番邪魔なのは何か。

情報です。

 

情報があるがゆえに計算高くなったり、ほどほどの着地点を探ったりしてしまうことがあります。

仕事で言えば、この相手にこのギャランティで明日はこんな予定があって、というところで

程よい着地点を探る。

すると本気を出しそびれる。

 

もちろん仕事は手堅さも必要で、それが「安定」に繋がります。

だけど、そういうことを全部忘れてガツっとアクセルを踏む瞬間も絶対に必要。

それがないと伸びない。

 

女友達と話をしていて、「わたしもお仕事したいな」(友人)「したら?」(わたし)という話になると、

たまに言われるのが、「愛ちゃんみたいに、カッコいい仕事だったらいいけど〜」

 

何を持ってそういうのか。

いらない情報が入りすぎだよ、と思います。

 

わたしは単純にお金が欲しいだけ。

ライターとして食えなくなったら、他の仕事をやります。

ものすごくこだわっているわけではないし、自己実現なんてことを考えているわけではない。

たまたまこの仕事にたどりついてそこで一生懸命やっているにすぎない。

 

自分に何ができるか。

「コンビニ店員だと恥ずかしい」と言う人もいます。

人によって望む働き方は違うと思いますが、希望と現実の調整をどうするか。

始められるところから始めるしかないのに、恥ずかしいと言う感情に邪魔されて、希望と現実の溝を埋められない。

 

時給1000円で週に◯日働くと月何万円になって、そうすると夫の扶養から外れてしまうから、

それは損だし、とか考えることもあるかも。

 

そんなふうに感情や計算に支配されるとアクセルを踏み損ねます。

そこで失っているものの大きさ。

 

恋愛でもそうですね。

好きだけど、告白するのが怖い。

そういうのももちろんいいのです。若い頃は。あと結婚した後とかは。

 

だけどたぶん本気でガツっとアクセルを踏まなきゃダメな時もありますね。

失恋してもいいんです。

つらくても恥ずかしくてもいい。

 

アクセルを踏んでこその世界があります。

そこはとってもクリアで頑張りがいのある世界。

いったんアクセルを踏むと、もう元の世界には戻れません。

 

ゆるゆるアクセルだと、戻れますよ

「付き合ってください!   なんちゃって〜」

みたいな告白だと、失恋してもそれほどつらくはないかも。

試しにちょっと働いてみよう、と2、3日働いて、あるいは2、3ヶ月働いて、やめる場合もありますね。

 

でも、思い切りアクセルを踏んだら、もう絶対に元の世界には戻れません。

いくら失恋する前の「告白してない状態」に戻りたいと思っても戻れないし、

仕事をやめたい、と思ってもやめられない。

起業する場合などはそうですよね。

 

そのことに気づいてアクセルを踏んだことを後悔することもあるし、絶望することもあります。

でも、その先に必ずクリアな世界があるから。

クリアな世界は、本気を出した人にしか見えない世界だから。

 

情報ばかり集めては、成功するかしないか、損か得かと考えて、得るものと失うものを計算したって仕方がない。

アクセルを踏もう。

倒れるなら、前に倒れよう。

 

 

 

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 09:42 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |