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ライター今泉愛子のブログです
アイディアに価値なんてほとんどない
 


金持ちになる方法はあるけれど、なって君はどうするの?

堀江貴文

徳間書店

1260円


これは、堀江さんが発行しているメールマガジンをまとめたもの。

中心になっているのは、堀江さんが提案するビジネスのモデルと

読者とのQ&Aです。

質問を寄せている人たちはそれなりに、深刻だったりもするのですが、

堀江さんはかなりずばりと斬っています。

お金払ってもらっているし、的な遠慮は一切なし。

でもきっと堀江さんのファンはそういうところが好きなのだから、

それでいいんでしょうね。


私が面白かったのは、アイディアについて。

「アイディアはあるんですが、実行できない」とか

「アイディアを人から盗まれたらイヤだ」とか

「資金がないからアイディアで勝負するしかない」とか、

質問の中に、そういう言葉があると、

必ず堀江さんは、アイディアに価値なんてないよ、と言っていて。

君が思いつくくらいのアイディアは、誰でも思いつくよ、とか。

これが個人的には、なるほど、な感じでした。


以前、仕事で料理関係の撮影を多くやっていた時に感じたことですが、

当時、多くの料理研究家の方は「レシピが自分の財産」と思っていらっしゃった。


ある料理研究家の方に、

「レシピを見せていただけますか?」と聞いた時に

即座に「見せられません!」と、反応されたことがあって。

彼女からすると、レシピを人に気安く見せて「パクられたら」イヤだ、と。

何度も試作を重ねて作ったレシピなんです!とおっしゃる。


たしかに、お料理の「レシピ」の価値が高かった時代もあったと思うんです。

フランス料理やイタリア料理、中国料理などをどうやって作ればいいか

皆目わからなかった時代もあったので。

その頃は、高い授業料を払って、レシピをいただいたり、

時に手で書き写したりしたのだと思います。


ところが、今はもう「大体の」作り方はわかっています。

ネットで検索すれば、たいていのレシピが手に入る。

もちろん、レシピのいい悪いはあると思いますが、

正直なところ、その「違い」にこれまでほど価値が置かれていない。


料理の世界で「パクリ」はあると思います。

私も、ある方のレシピが、ある著名料理研究家のレシピとそっくりなことに

気付いて驚いた経験があります。

細かいところは変えていても、基本的には同じでした。

それは「パクリ」なのかもしれませんが、

あの業界では意外と起きていることなのかもしれないと思いました。


だけど、料理研究家は、どんどん新しいレシピを発表できてこそ、

なのだと思います。

流行、季節、ニーズ、そういうのを敏感に察知して、どんどん新しいレシピを出す。

だから逆にいうと、大先生から受け継いだいくつかのレシピを

後生大事にしていたら、料理研究家としては大成できない。


いまはインターネットによって、

「レシピにお金を払う」感覚がどんどん薄れています。

料理研究家という仕事の根本を揺るがしてしまった。


すると、お料理教室に足を運ぶのは、

その先生がとても魅力的で、彼女と一緒にお料理したい! 

という生徒さんたち。


「レシピ」に固執するのではなく、要は料理から何を発信するか。

料理を通じて、その人の生活が見えてくる、何を大切に生きてきた人なのかがわかる。

そういうところに、人はお金を払うんじゃないかなと。

アイディアを大切に大切に囲い込むという方向には戻らないだろうと思います。


この本のQ&Aで、もうひとつはっとしたのが、

堀江さん自身の「つらい経験」を聞く、読者の質問に対し、

堀江さんが一通り答えた後に、

「てか、人の苦労しているとことか見て、励みになるの?」というところ。


これね、インタビューなどでもよく「どんな時が一番大変でしたか?」と

聞いてしまうんですよね。

成功者が成功した話だけを書くと共感を得られにくいので、

その人が、苦労や努力を経てその成功をつかんだ、と書こうとしてしまう。

読者が、自分たちも今がんばれば、その成功者のようになれるんだ、と思えるような

書き方をするんです。


この質問者も、堀江さんだって、自分と同じようにつらい思いをしてきたんだ、と

思いたいのでしょう。

私もそういうところがあります。

華やかな面ばかり見せつけられると、自分との違いに沈んでしまうから。


でも、そこに注目してしまうと、苦労に甘んじてしまう。

目標を達成するための努力としての苦労じゃなくて、

苦労すること自体が目的になってしまう。

苦労やつらい経験に意味を求めていると、苦労そのものに価値があると

思い込んでしまって、そこから抜け出しにくくなるんだなと思ったのでした。


あの有名人は、こんなに成功している、

あの社長は、こんなに稼いでいる、という光の部分って、

案外、人は目を背ける。

自分と比べて落ち込みますからね。

まぶしいものよりも陰を見ることを好む習性を

人は持っているのかもしれません。


苦労が好きなら苦労していればいいのですが、

あの有名人は、こんな苦労をした、

あの社長は、こんな苦労をした、と

人の苦労話を聞いて喜ぶ”苦労マニア”になってしまうと、

どんどん成功から遠のくんだろうな、と思ったのでした。




posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 19:13 | 書評 | comments(0) | trackbacks(0) |
下に見る人

下に見る人
酒井順子
角川書店
1365円
(Kindle版1297円)

タイトルを見て、「いるよね、いるいる」と手に取ったのです。

「いるいる」なんだけど、それをしっかり文章にまとめて

本に出来るところが酒井さんのすごいところ、

と思いながら読み始めると、

この「下に見る」行為の分析がさすがで、

これだよ、酒井さんのすごいところは、と思い直したのでした。


どういうことか。

「下に見る」と言うと、自分が美人だったり、お金持ちだったりすることを

鼻にかけて他人を小馬鹿にする、というイメージではないでしょうか。


でも、彼女が取り上げる「下に見る」は、

必ずしも「弱いもの」いじめばかりじゃないんです。

たとえばネット。


引用します。


:::::


ネット上では匿名で攻撃をすることができるし、

腕力がなくてもいじめることができるし、相手と会話しなくても済むので、

その場で言い負かされる心配がなく、思う存分に書き込むことができる。

ネットは、弱者にとって格好のいじめ手段となりました。


:::::


わかりますか。

弱者が強者をいじめていると言ってるんです。

いじめる相手は、たとえば勝間和代さんや、

茂木健一郎さん、あるいはイケダハヤトさんとか。


そういう有名人たちを叩く人、多いんですよね。

お前なんて大したことねえぞ、と。

明らかに、自分よりも有名でお金も稼いでいる相手を

「見下したい」んですよね。


こういう「下に見る」行為は、弱い者にある側が、

その原因を直視せずに、強い人に対して

「お前なんて大したことない」と悲痛な叫びを上げている、

行為であったりもする。


「人を見下したような態度」は本来は、

弱いものの側に対して向けられるものでしたが、

ネット上では逆転現象が起きているんですね。

なるほど!でした。

だけどこれはネット上に限らない。


酒井さんの本に出て来たのは、おばさん。

私も酒井さんと同世代なのでよくわかるのですが、

最近、渋谷を歩いていて、明らかにティッシュを

もらえなくなったんです。

道を行く女性にサクサクと配っていたお兄さんが、

私の番になるとすっと引っ込めて、

次に来た若い女の子に渡す。

あれ? 

初めての時はショックでしたよ・・・。


怒り心頭、なわけはないですけど、

おばさんは傷つきます。

そういう時に頭の中をうずまくのは

「ふん、若さなんていずれ失うのよ」的な負け惜しみです。

「あんな格好で歩けるのもいつまでかしらね」とか

「お金のない若い人のファッションって、なんか下品」とか。

要するに、ティッシュ戦争での負けが明らかになっているにもかかわらず、

おばさんは攻撃しようとする。

何とかして「下に見よう」と踏ん張る。

これが負け惜しみではなくなんでしょうか。

この本を読んで、わたくし、ティッシュ戦争からは

潔く撤退することに決めました。


男尊女卑も面白いです。

男は女を下に見る。

ま、これはふつう。

ところが、女は心の中で、

「おまえは、私に指図できるほど立派な男なのか」と下に見る。

女性のほぼ全員が「あるある」ではないでしょうか。

「男尊女卑」を当然のように振り回されて、

下の立場に押しやられた女は、必ず心の中で、

相手を下に見ようとするんですよね。


「東大卒って、なんであんなに使えないの?」と大声張り上げて

言う人もまた同じ構図で、大学受験では負けたけど、

社会に出てからはオレ様のほうが使えるからね! と

言いたいわけです。

わかるわかる。


この本は、センスの悪い人や地方出身者を「下に見る」行為だけを

分析しているわけではなく、

下にいるけれど、それが耐えられず毒を吐いてしまう人たち

のことも分析しているところが面白いんですよね。


ところで、この上だの下だのという感覚って何なんでしょう。

学校の先生と生徒のように、

立場的な上下関係がはっきりしている場合はどうでしょうか。

この場合はいろいろですね。

とにかく上に立っていたい先生もいれば、

生徒とフラットな関係を築く先生もいます。

人それぞれ。

でも威張る人ほど、自分に自信がないのかもしれません。


そう考えていると、

上下関係がはっきりしている方がやりやすい、という人も多いですね。

立食パーティなどで、自由に会話できない人は

そういうタイプじゃないでしょうか。

フラットな会話が苦手で、いばるかへりくだるかしかできない人。


上だ下だと気になるのは、何とかして自分の心を守ろうとしているのでしょう。

でもその傷つきやすい心って、何なんだろうなあ、と思ったりして。


勝間和代さんの本のAmazonレビューを見ていると、

「おまえなんてすごかねーよ。なんでおまえの本が売れるんだよ!」という

悲痛な叫びが聞こえてくることがあります。

要するに、下に見たい。

お前なんて大したことないくせに!


そう言いたいのは、「なぜ自分は彼女のように」稼げないのか。

有名になれないのか。人から賞賛されないのか。という不満があるから。

茂木健一郎さんなんかもよく叩かれています。

あれは学者じゃない、とかね。

もういいじゃないですか。


そういうあなたの目の前の畑は草ぼーぼーですよ、と。

まずは草むしりをしましょうよ。

そこを耕しましょうよ。

「でもうちは日当りが悪いから」

だったら、買い替えましょうよ。

でも買い替えるお金が貯まるまでは、今の畑を耕すしかないです。

その我慢ができない。

生まれながらに、日当りのいい畑を持っている人がいる、

という事実に足もとをすくわれてしまうんですよね。

もったいないと思います。


私の場合はですね、写経をやっています。

写経って、いやあれです。

カポーティ『ティファニーで朝食を』村上春樹訳を書き写しています。

この本は本当に大好きで、一時期は翻訳していました。

でも能力的に足りなくて、最近は写経状態。

楽しいですよ。

ここはこんな言葉を使うのか、とか思いながら

空いている時間に黙々とやっています。


それで文章がうまくなるのか?

いや、すぐには無理でしょう。

もしかすると永遠に無理かもしれません。

どういう「成果」が得られるかなんて、わかりません。

全然わからないけど、やっていると楽しい。

それでいいんじゃないかと思うわけです。

少なくとも私の心は平穏だし。


もしお金を稼ぎたければ、じゃがいもよりもメロンを植えればいいのかもしれません。

農業的にどちらが儲かるか検証してませんけど、イメージです。

でも、自分がじゃがいもが好きならじゃがいもを植えればいいわけです。

それを誰かが「あんなに儲からないもの植えたってねえ」と言ってきても

いいじゃないですか。

「わたし、じゃがいもが好きなんで(ニッコリ)」で。

メロン農家が儲かってたって自分には関係がない。


もしメロンのほうが儲かるのに、と思うなら、転作すればいい。

それなのに「メロンなんか作りやがって! この金の亡者め」と

メロン農家を下に見ても仕方がないんですよね。


まずは目の前の畑を耕すこと。


そういえば、為末大さんの本にこんな一節がありました。


 一時期、日本中を騒がせたホリエモンのような人物が出てきたときに、

「うらやましい」と言えたかどうかというのは、人生において、

とても大事なことだと僕は思う。

「オレもいつかのし上がるぞ」と思えたかどうか。

結局、のし上がれなかったとしても、そこには清々しさが残る。

 しかし、ホリエモンを見た瞬間、本当はそれを欲しながらも、

自分には無理だと思って、「お金だけあってもしょうがないよ」と

言ってしまったことのダメージは、人生には実はかなり大きいと思う。

斜に構えすぎてはいけない。もっと素直でいるべきなのだ。


村上春樹さんを冷笑する作家さんというのもたまにいますが、

あなたの欲しいものは何ですか?と聞いてみたいです。

正当な批評ならいいのですが、

そうではなく「ふん、村上春樹なんて読むの?」と冷笑する人。

もしかしたらノーベル賞が欲しかったりするのかもしれません。


素直に生きましょう。

愚直でいいんですって。


posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 13:47 | 書評 | comments(0) | trackbacks(0) |
もう「すみません」と言わない

自分を愛する力
乙武洋匡
講談社現代新書
798円
(kindle版683円)


いまAmazonを見ると、このところ立て続けにレビューがあがっているみたい。
例の「イタリアン入店拒否問題」がきっかけで
買った人も多いのかもしれません。 
かくいう私も、あの騒動がきっかけなのです。
書店でこのタイトルを見た時に、そうか、なるほど、と思ったんです。
「自分を愛する力」の強い人なんだな、と。

帯にはこう書いてありました。

 僕が明るく生きられる理由。
 「自己肯定感」とはどのように育まれるのか。

自分が不当に扱われたと感じた時、人は怒りを覚えます。
だけど、どうせ私なんて、と落ち込んだり、
自分が悪かったのかもしれない、と原因を自分に求めたりする人もいます。
私も場合によって、いろいろですね。
それはあんまりだろう、と怒ることもあれば、落ち込んだり、
おとなしく反省したり。

乙武さんは、自己肯定感が強い方なのだと思います。
自分ももう少しそんな面があるといいなと思って手に取ったわけですが、
結論として、この本には、自分の自己肯定感をどうすれば強くできるかは、
書かれていないです。
書いてあるのは、乙武さんの自己肯定感はどのように育まれたか、です。
読んでいると、ご本人の資質+ご両親の育て方が大きいと思います。

この辺りは、私が子育てする上での参考にはなりますが
(といっても時すでに遅しな感じもする)、
自分自身を「どう変えるか」にはつながりにくい。
というか、つい、こんなふうに育ててもらってないもんなーと、
思いそうになります。
いや、そういう気持ちは封印して、大人になるって決めたんでした。

だけども、参考にはなったのです。
それは「自分を愛する力」とはどういうものなのか、ということ。
具体例ですね。

まずは、どんなに小さなことでもいいから、
自分のできるところに着目する。

乙武さんの場合は「できないことだらけ」から人生をスタートして、
「できた!」という達成感をどんどん積み重ねたようです。
「できた!」という気持ちは、次の「できた!」を招くんでしょうね。
もちろんご本人の努力や周囲のサポート、
そして何よりご本人の負けん気の強さが関係したのでしょうけども、
そういう循環で、どんどん自己肯定感が育まれていくことは
よくわかります。

そうして強い自己肯定感を身に付けると、あまり細かく
自分にダメ出しをしないんですね。
もし自分のダメなところを見つけても、そこに固執せず、
自分の「できること」を見つけられる。
そういう思考パターンが身に付いているのだと思います。

乙武さんは、学校の先生になった時、それから子どもを持った時に、
自分の「できない」ことに対して落ち込んだそうです。
授業中に地震が来たら、子どもたちを速やかに誘導できるのか?

だけどそこで「自分なんてダメだ」「所詮無理だった」とならず、
ちゃんと自分のできる部分を見つけて立ち直るんですよね。

「もともと自己肯定感の強い人だから」当たり前、と思ってしまっては、
進歩がありません。
今からでも少しずつ積み重ねていくことが大切なのでは、と思いました。

もうひとつ、参考になったのは「人と比べない」ことの大切さ。
乙武さんは生まれた時から、比べられる人がいなかった。
これって、ちょっと「はっ」としました。
いや、比べる相手はどこにでもいます。
これができない、あれができない、となりますから。
ぜーんぶ比べて落ち込むことだってできます。
でもあえて比べない。意味がないですから。

それって、乙武さんにだけ当てはまることではないのかもしれません。
だいたい人は、自分と他人を比べるのって、負けている時です。
自分が他人より劣っているように感じた時。
だって、勝っている時は、心に余裕がありますから、
比べようとは思いつきません。
ということは、比べようと思った時点で、
落ち込むか、あるいは恨み妬みを募らせるか、になります。
だったらそんな意味のないことはやめる。
自分を愛する、というのは、人と比べないで
自分の価値観を持つことなのですね。

で、あとひとつ。
人に対して「悪い」「申し訳ない」と思いすぎないようにすること。
たとえば、待ち合わせに遅れた時「ごめんね」と言いますが、
それ以上に「悪い」「悪い」と思いすぎない。
一度「ごめんね」と言えばそれで十分。

一度の「ごめん」もなしに、大きい顔ができる人には関係のない話ですが、
私なんかは、必要以上に相手に「悪い」と思ってしまう。
でも、そこには自己肯定力の弱さがあるのかもしれないと思います。
自分が悪かったとしても、遅れたことは取り戻せないので、
一度謝れば十分なわけです。

乙武さんは、子どもの頃から、
「手伝ってもらっているから」「障害者として受け入れてもらってるから」
下手に出るという考えがどうしても浮かんでこなかった、とか。
なるほど!と思ったんですよね。
これも自己肯定力だと思います。
誰かに助けてもらったとしても、卑屈にならない。
「ありがとう」と一回言えば十分なのです。

謙虚さが大切だと言われますが、どこまで必要なのかな、と
あらためて思いました。
過度な謙虚さは、自己肯定力とは対極にあるような気がします。 
「ありがとう」も「ごめんなさい」も1回で十分。
「すみません」はいらない。
そのくらいでいいのかもしれません。

ところで、乙武さんは、小学校教員としての経験をもとに小説を書いたとか。
『だいじょうぶ3組』『ありがとう3組』という本になっています。

これには「ちょっとした隠し味を忍ばせてある。」とあります。
どういうことか。

車いすに乗った主人公には赤尾、それを手助けする補助教員は白石、
よき兄貴分として相談に乗ってくれる先輩教師には紺野、
厳しい指導で恐れられる学年主任には青柳、さらには校長に黒木、
副校長に灰谷----教員の名前には、すべて色の名前がついているのだ。

色の名前がついているのは、
ひとりひとり個性を持った存在であることを表現したかったとか。
いやん、それって『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
じゃありませんか。

と、最後にそんな発見をして喜んだ、ハルキストでありました。
(もちろん書かれたのは、乙武さんのほうが先です)


posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 11:10 | 書評 | comments(0) | trackbacks(0) |