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ライター今泉愛子のブログです
アニメ現場をリアルレポート〜風に吹かれて


風に吹かれて
鈴木敏夫
中央公論新社
1890円

鈴木敏夫さんというのは、スタジオジブリのプロデューサー。
高畑勲、宮崎駿という2大巨匠を擁するスタジオジブリの
設立から深く関わり、アニメの制作現場を指揮してきた方。
彼がいないとスタジオジブリは回らない、くらいの存在なのだと
思います。

この本は、インタビュー形式になっています。
質問→回答 質問→回答、と対話によってどんどん話が深まっていく過程も
楽しめて、一般のノンフィクション作品とは異なる味わいがありますね。

インタビュアーは、渋谷陽一さん。
こちらはロッキング・オンの創立メンバーで現社長。
日本屈指のインタビュアーというところでしょうか。

これは一体何時間続けたのかというくらい密度の濃いインタビューで、
お二人の信頼関係があり、渋谷さんの鋭いインタビュー技術があり、
鈴木さんの頭の回転の速さがあり、なのだと思います。

何度も「この話もしてしまおう」と鈴木さんが決意して
話す場面があるんですね。
だからあまり普通には聞けないようなエピソードてんこ盛りで、
渋谷さんが「これ、宮さんが読みますよ?」 書いても大丈夫?と
心配する場面もあるほどです。
(ふつうは、渋谷さんはそんなこと心配するようなタマじゃないです)

きっとアニメ好き、ジブリ好きの人たちにとっては、
別の読み方があるだろうと思うのですが、
ジブリ作品をさほど見ているわけでもない私が面白かったのは、
アニメの制作現場の生々しいやりとり。
誰が誰にどうやって指示して、作品が出来上がってくるのか。
監督を宮崎さん以外がやる時は、どう決まるのか。
そんな過程が明かされていて面白いです。

あと宮崎駿さんも
他人に「儲かってるんだろうなあ」と思わせるような
江原啓之的お金の匂いがぷんぷんする方じゃないのですが、
読んでいると、本当に職人なんです。
1日24時間すべてアニメに捧げているように、読めます。
だけどもちろんアイディアがどんどん出てくる時もあれば、
行き詰まる時もあって、そういうところも含めて
熱のこもった創作現場のレポートになっています。

他の人が宮崎さんを語ると、あまり本音を語れない部分もあると思います。
でも最も身近な鈴木さんだからこそ、宮崎さんのいいところもダメなところも
生き生きと語っていて、すごく味わいがあります。

「しょうがない。人間的立派さを求めてもしょうがない。
面白いものをつくるんだから」
これはもう鈴木さんにしか言えないひと言ですね。

ジブリとしては、「制作集団」としての色合いが伝わってきました。
スタッフたちの真面目で熱心な感じ。
だけど、ある日宮崎さんと鈴木さんが、ジブリに帰って来たら
「関係者以外立ち入り禁止」というような(すみません、うろ覚え)
張り紙があって、ふたりでぽかんとした、とあって、
ちょっと笑いました。
うちは、いつの間にそんなエラそうな会社になったんだ?
って感じが。

会社の社交の部分は、鈴木さんが多くを担っている。
だから他の人たちは本当に作品のことだけ考えていればいい。
それは作り手としてはすごくいい環境です。

鈴木さん自身も損得とか利害とかを細かく計算して
動くのではなく、もっとダイナミックに動く。
ここでは頭を下げるべきだ。
ここは相手を立てよう。
そういう判断においても、目先の利益というよりは
もっと大きな使命感を持って臨んでいる。

仕事では、私のようなライターでも会社員でも
「社交」や「政治」も必要で、
人と会ったり、礼状を出したり、贈り物をしたり、
機嫌とったり、というようなことを重視する人もいます。
そういうノウハウをテーマにした本も多いですね。

私自身は、ビジネス的な社交術があまり好きではありません。
「とりあえず」つないでおきたい意識で名刺交換したり、メールしたり
することはほとんどないです。
というのは、繋がる人とはいつかどこかで繋がるものだし、
チャンスって、いつもどこからかやってくるし。

なので、私はこの本を読んでいて、
ジブリの仕事ぶり、宮崎さんの仕事ぶりのある種のストイックさに
ものすごく惹かれました。

ただひとつだけ、ちょっとなあ、と思ったのは、
やや渋谷さんのインタビューのやり方に強引なところがある点。
ご自身の仮説をぶつけて、言葉を引き出すのはとてもうまいのですが、
後半は無理矢理、鈴木さんを「うん」と
言わせようとしているようにも思えて、
力技でまとめようとしているような感じがしました。

もちろんオチ(結論の部分)があったほうが
まとまりがいいのはわかるんだけど、
私はもうちょっと、さらっと終わってくれるほうが好きかなあ。
その方が、読み手としては「あ、終わっちゃったよ!!!!」という
残念感があって、そこで、さらに書かれていた内容を自分の中で
フィードバックできるから。
それは好みの問題なんですけどね。

でも鈴木さんの、高畑・宮崎、両巨匠の掌握術はマジすごいです。
アニメ好き、ジブリ好きでなくとも、十分楽しめます。

ロッキング・オン社が出している「Cut」9月号には、
宮崎さんのインタビューが出ているみたい。
これも読んでみたいですね。


posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 11:12 | 書評 | comments(0) | trackbacks(0) |
バブル母さんvs.失われた10年息子
 パンケーキ問題は解決したのですが、もうちょっと書きます。
またまたtwitterで、migさん(@6iw)からこんな言葉をいただきまして。

「上を知ると戻れないから上を知りたくないのもある」

いいものを知ると、次もまたいいものが欲しくなる。
ってことは金がかかるけど、それは困る。
だから、よっぽど興味があれば別だけど、
何でもかんでもいいものを知りたいとは思わない。
そういうことですね。
食もそうでしょうし、服や家具なんかもそう考える人がいますね。

じつは、息子からも同じようなことを言われました。
わたしは、料理はあまり得意ではありませんが、
外食は得意です。
家族にもしょっちゅうごちそうします。

息子たちの進学祝いをかねて、
フランス料理を食べにいった時のことです。

とってもゴージャスなフレンチディナーで、
お母さんはもう意気揚々ですよ。
あたくしってなんて素敵なママンなのかしら、と。

ところが息子が、戸惑い気味にこう言ったんです。
「オレ、自分のお金でこういう店に
来れるようになる気がしないんだよね」

はあじゃないですか。
バブル女としては。
そこは、気合いと根性で乗り越えようよ。
あきらめなければ夢は叶うんだから。
無理って思うから無理なのよ。
と、ブラック企業の経営者みたいなことを言いたくなりましたが、
バブルであってもノワールでないママンは、ぐっと堪えて考えました。
私は息子たちに、親切の押し売りをしているだけなの?

そういえば、私たち世代の母親が
子どもたちに不満を持つことのひとつが、
欲がないことです。

バブル母さんは、海外旅行が大好きです。
自分自身は幼い頃に海外旅行に行ったことはありません。
大学生、あるいはOLになった時に初めて海外に行って、
「世界は広いなあ」と無邪気に感動しました。
パリのヴィトンのショップに行ったか、
ハワイのビーチで寝転がっていたか、
あるいは、アメリカの大学に留学だったか。
経験は人それぞれですが、
とにかく「こういう世界があるんだ!」と
アラ成人式の頃に、刺激を受けています。

だから、子どもたちのことを「国際派に育てたい」という
並々ならぬ野心を持っています。
英語だって、自分は大層苦労したけれど、
自分の子どもには幼い頃から学ばせて、
定番バッグの値段を聞くだけではなく、
奥の棚から新作バッグを持ってこさせるくらいの英語力を
身につけてもらいたいんです。

私の友人は、そんな野心を秘かに抱いて、
子どもを海外旅行にどんどん連れていきました。
アメリカ、イギリス、フランス、スペイン、イタリア。
(バブル母さんは、インドや中国には行きません)

でも子どもの海外への興味は今ひとつ。
だから英語の成績も今ひとつ。
ママは嘆いていました。
何のために、あんなに海外に連れて行ったのかと。

するとですね、なんと息子さんはいきなり鎖国を宣言したんです。
「僕はもう一生分の海外旅行をしたから、これからの人生は日本で過ごす」
ママがわなわなしていたら、さらに追い打ち。
「あれだけ飛行機に乗ったんだから、被爆量だって相当だよ?」
もう言い返せません。

別のバブル母さんは、娘さんが幼い頃バレエに興味を持ったことで
野心に火がつきました。
仕事を持っているママだったので、
とにかくテキパキと効率よく物事を進めます。
いい先生を探し出すことはもちろんですが、
海外の一流バレエ団の公演が日本であると、
必ずSS席をキープ。
娘を連れて出掛けました。

バレエをやるには耳も大切ということで、
クラシックのコンサートにも連れていきました。
もちろん一流のオーケストラ公演の一流のシートを押さえました。

英国にも連れて行きました。
目的はもちろんロイヤルバレエの公演です。
あちらでレッスンを受けられる手配までしました。

ところが、お嬢ちゃんは「このままだとママに赤い靴を履かされてしまう」
とばかりに、突然シューズを脱いでしまいます。
「もういいから」

へ?
何言ってるの? 
まだまだこれからでしょう?
ママは訴えます。
バリキャリのママは、投資を回収できないことが死ぬほど嫌いです。
(もちろんこのママはカツマーじゃありません)

「小さな頃から一流のものを見ていた私だからわかるの。
私は、あんなに上手には踊れるようにならない」

がーん、ですよ。
投資が裏目にでましたよ。

バブル母さんたちは、物心ついてからバブルを体験しました。
その時に、「自分は何も知らなかった」ことに気付いたのです。
美味しいワイン、海外ブランドのバッグ、
クラシックコンサートやオペラ。
だから、子どもたちには「幼い頃から」
そういう豊かな経験を積ませたいと意気込む。

わたくしは、レストラン。
友人ママは、海外旅行。
バリキャリ叩き上げのママは、バレエ。
何気に、自身のコンプレックスを反映している場合も
あるのかもしれません。
「幼い頃から経験を積んでいれば!」という想いが、
子どもたちへの過剰投資につながる。
(私の場合は、幼い頃に行った資生堂パーラーの
想い出を書いた江國香織さんのエッセイを読むたびに、
食経験では東京の人にかなわないな、と思っていました)

ところが子どもたちは、まったくありがたがってはくれない。
ママたちの思惑(投資の回収)を敏感に察知するんでしょうね。

投資の回収ったって、お金を返してほしいわけではありません。
そうじゃなくて「幼い頃からの豊かな経験が実を結ぶ」瞬間を
見たいわけです。
先進的なママに育てられた、とちょっぴり本人にも感謝してもらいたいし、
周囲の人にもさりげなくわかってもらえればちょっとうれしいかも、という
本人としては、いたって謙虚なつもりです。

ところが子どもたちは「その手には乗らないよ」とばかりに
シャッターを下ろす。
ああ親子の断絶。
バブル母さんと失われた10年世代の子どもたちの親子の断絶は、
かつての親子の断絶とはまったく趣を異にします。
子どもたちはちゃぶ台をひっくり返したり、
金属バットを持ち出したりせず、静かに部屋に引きこもってネット三昧。

バブル母さんは、自分たちがこんな親に育ててもらいたかった、
という理想の親になったつもりでいます。
子どもたちとは友達感覚で接して、いろんな環境を用意して。
悪気はまったくないのですが、
悪気のなさというのは、ある種の鈍感さですね。

私はたぶん死ぬまでこの価値観を引きずると思いますが、
「本当に美味しいものを知らない人生は不幸」と決めつけて、
他人(たとえばパンケーキの行列に並んでいる人たち)を
不幸よばわりするのではなく、
「私は美味しいものを食べるために働くの」と
この価値観を自己完結に使うしかないですね。

オチが弱いんですけど、今日のところはそんな感じで。
posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 11:53 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
価値観の新旧対決・レストランの場合
パンケーキの行列になんでわたしはここまで「イラッ」 と来るのか。
そんなことを考えて、一昨日記事を書いたわけですが、
まだイライラは止まらなかったんです。

というのも、私は「行列」にイライラしているわけではないんです。
ラーメン屋さんや寿司屋さんの行列は「あらまあ」と思うだけ。
私は並ばないとしても、イライラはしません。
ラーメン屋さんには、私も並んだことがあるのですが、
皆さん、とってもラーメンに詳しそうで、そこに一途な想いを感じたんですね。
どうしても、そこのラーメンが食べたいんだ、というような。
その想いは理解できます。
アイドルのサイン会だとか、アップル製品の新発売だとかの行列もそうです。
並んでいる人たちの「どうしても」という切実な願いに対しては、
「がんばれ〜」と思うんですよね。

ところが、あのパンケーキの行列には、
そういう想いのようなもの、愛とか情熱とかを感じないわけです。
「有名らしい」「美味しいらしい」という情報に導かれて並んでいるだけで、
そのお店のファンでもなければ、パンケーキマニアでもない。
何だかとってもふわふわしているんです。
従順な子羊たちの群れのような。

それに対して私は「安易すぎるだろ!」と思ってしまう。
いいお店は、ほかにいっぱいありますよ?
もっと自分の足と舌とで探してみませんか?
と。

これって、じつはちょっとうざい熱血感がありますよね。
余計なお世話、的な。
バブルおばさん、うるさいよ。

twitterのほうでもしきりに、パンケーキの行列についてつぶやいていたら、
ある方からこんな指摘が。

手間をかけて探す美味しいもの<
おいしいと評判のお店に友人と並んで、待って、食べて、
感想を言い合って、周りの人に「噂のあのお店で食べてきたよ!」と
お土産話をするという優先順位じゃないかなと想定してます。

そうなんです。
要するに、私とは価値観が違う、という話なんです。
そこで思い出したのが音楽業界の話。
もう1年以上前ですが、ネットでちょっとした論争がありました。

佐久間正英さんという音楽プロデューサーが、
ご自身のブログに「音楽家が音楽を諦める時」という記事を書いたんです。

制作費がかけられなくなってきた。
もう「いい音楽」は作れないのではないか。
という嘆きでした。

JUDY&MARYやGLAY、エレカシやブルーハーツなどを
プロデュースしたこともある佐久間さんですが、
最近は、インディーズバンドのプロデュースもやっているとか。
そこだと制作にかけられる予算がものすごく限られている。
その予算の中で最大の効果を狙うのは当然のことだとしても、
やはり限界はある、と。
そういうことが書かれていました。

この記事に反応したのが、かさこさん。
「つぶやきかさこ」というブログにこんな記事を書きました。

内容は、タイトルに集約されていますね。
佐久間さんの考える、お金をかけた「いい音楽」を、
いまという時代は、求めてないんじゃないか、と。

私自身、一連の記事を読んだときは、
かさこさんの意見に同意する部分が大きかったんです。
スタジオ環境、録音機材、いい楽器、
優秀なスタッフなどで獲得できる「高い品質」の
高価な音楽を、消費者求めていないのだな、と。
作り手の想いは一方通行なのです。
ビジネスって、需要と供給で成り立ちますから、
それはもう、やむを得ないだろうと。

こういう事態は、いまあらゆるところで起きていて、
出版界もそうですね。
写真が特に厳しい気がします。
高額な機材を使った「いい写真」ばかりが求められなくなってきている。
もちろん「いい写真」のニーズはあるのですが、
「いい写真」でなくてもいいや、という場面も増えていて、
コストと品質の関係をシビアに考えるようになってきています。

私もそういう現状は十分承知しているのに、
料理に関しては、割り切れなかった。
私にとって「料理」「レストラン」はある種の聖域なのかもしれません。
心を込めて作った料理がいいに決まってるじゃないか、と。
一日中行列ができるような店で作っているパンケーキに
「心」なんかこもってないじゃん。
食材だって「粉」だよ?
そんなものがいいの?って。

私自身これまでグルメ記事を書いていましたが、
要するにそこで語るのは、シェフがいかにおいしい料理を
提供することに心を砕いているか、という部分。
そういうことを懸命に伝えようとしてきたのです。

でも、そう。
料理の世界も、こうやって新しい商売の感覚がどんどん入ってきていて、
黙々と美味しい料理を作っているだけでは、厳しいのは事実。
三ツ星レストランのニーズは、まだ残ると思います。
それより厳しいのは、もっと「ふつう」のレストラン。

手間ひまかけて美味しいレストランを探そうとする人が減っています。
グルメ系雑誌もおもな読者層はおそらく40代以上でしょう。
「美味しい料理を出していれば、消費者はわかってくれるはず」だと
甘い。
飲食業界の方たちは、
「みんなが足を運ぶ人気のお店に私も行きたい」と考える人たちの
存在を「うすっぺらだ」と笑っている場合じゃありませんね。

音楽に関しては、私はまったく耳が肥えていません。
いい音とダメな音を聞き分けられなくて、
youtubeで満足するレベル。
サントリーホールにクラシックを聴きにいくような趣味もない。
音楽の時は「まあ仕方ないんじゃない?」「それが時代でしょ」と
思っていたのに、
レストランだけは、なんでこんなに寂しい気持ちになるのでしょうね。

とは言え、私はやはり音にはこだわらないけど、
味にはこだわりたい。
いいお店を探して発信もしたいし、
自分が食事する時は一生懸命リサーチする。
だけどパンケーキの行列にイライラするのはやめる。

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 12:06 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
理由なき不安との戦い
 私の友人で離婚を考えている人がいました。
結局、1人は離婚して、1人は離婚しないことを選びました。

離婚しないことを選んだ友人は、ご両親がすでにこの世になく、
「家族のいない人生というのはつらすぎる。あんな夫でも私には唯一の家族だから」
と言っていて、なるほどね、家族って大事だよね、と思っていたんです。
彼女が専業に近い主婦というのも大きいだろうと思います。

ところが、離婚した方の友人にこの前、会ったら、
「私にはもう親もいないし、心配かける人はいないから
自由に離婚を選択できたの!」と胸を張っていて、
おお〜ワンダフル!と感心してしまいました。

どちらも「両親がいない」という点では同じなのですが、
決断は正反対。

離婚した友人は、経済的にはまだ厳しい面もあって、
住んでいるのは古いアパート。
だけど、とっても楽しそうに一人暮らしをしています。
「何とかなるよ〜!」って。

「不安」に潰されてしまう人っていますね。
不安につけ込む商売も多いです。
生命保険もその一種ですし、私は正直「エンディングノート」も、
不安商売な気がします。
子どもの塾や予備校にもそういう面はありますし、
英会話を煽る広告にもそういう面がある。

英会話を「やっておかないと不利だ」という不安から受講するのか、
「英語が話せたら楽しいな」と前向きに受講するのかって、
たぶん上達も全然違うと思います。

不安に対処しだしたら、たぶん次から次へと不安が浮かんでくる。
不安が不安を呼んでしまう。

アパートで一人暮らしをしている友人を見ていると、
「一人暮らしなんて怖い」「仕事なんて見つかるはずがない」
「孤独死なんて耐えられない」と心配して離婚を躊躇するよりも、
思い切って一歩踏み出すのも悪くないんじゃないかな、と思いました。

躊躇してしまう人が「ダメ」だとは思いません。
でも、私は不安につぶされない人生を選びたい。


posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 12:51 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
報われる努力が大好き〜行列に並ぶ3つの理由
 私が通っているヘアサロンの1階が、パンケーキ屋さんなんです。
行くといつも長蛇の列ができています。
毎回イライラするんです。
パンケーキですよ? 
1時間、2時間も並んで食べるもの?
とつい思ってしまう。
世の中にはもっと美味しいものがいっぱいあるのに、
なぜここにだけこんなに人が集まるのか。
なぜそうまでして食べたいのか。

その店の食べログを見ていると
「並ぶということは美味しいということの証」と書いている人もいて、
情弱か!と叫びたくなります。

私は「行列」が美味しいことの証だとは思いませんが、
人気であることは、事実なんでしょうね。
いま東京で大人気のパンケーキの店!
とテレビや雑誌やネットが伝えると、それが口コミとなり、
何が何でもそれを体験したい!というミーハー魂に
火がつく人も多い。
人気だとか流行だとかというキャッチフレーズに弱いのは、
仕方がないと思います。
私にだってそういう面はありますし。

でも、それだけじゃないよな、と思ったんです。
ミーハー魂だけじゃない何か。

ひとつは、「すごーい! 行って来たんだ!」と
ビックリしてくれる友人の存在。
列に並んだだけのことをすごいことにしてくれる友人、
あるいは、有名パンケーキ店に行ったことを
うらやましがってくれる友人。
行列に並んだことは自慢になる。
これ、重要です。

この前、岩盤浴に行った時に
休憩室で一緒になった女性ふたり組が
パンケーキの店のことを話していたんです。
ひとりがつい最近行って来たらしい。
ふたりの口ぶりでは「2時間も並んだ」ことが
称賛に値する行為のようでした。
何もしないでただ友達とグダグダ話しているだけの行為が、
「すごーい! がんばったねー」ってことになる。
いやいやいや、その程度のことが?
っておばさんは愕然としましたが、
並んだ女の子の誇らしげな表情に、
日本ってなんで平和なんだろうと感謝しました。
アベノミクス万歳。

行列ができる理由は、
ミーハー魂 + 他者の賞賛

そしてもうひとつ考えました。
それは行列に並ぶことは、報われる努力だということ。
並び続ける限り、必ず目的は達成できます。
報われない努力ではないんですよね。
しかも前に進むから、
いつ目的を達成できるかがわかりやすい。

東日本大震災の時に、日本人はこの緊急時にも行列を守る、と
外国人から驚かれたという話がありましたが、
あれも全員が並んだ順に、自分の番がまわってくる点が
日本人的に安心なんだろうと思いました。
ああいう時にズルをする人って、かなり叩かれますが
生存(に近いもの)がかかっていたとしても、
私たちは平等バイアスがかかる人種なのです。
行列だと、成果を手に入れるためにはどういう方法があるかが
わかりやすい。
そして、いつ手に入るかを予測できる。
ズルをする人がいると、その予測に狂いが生じます。
才覚次第で、成果物を手に入れられるとなると、
能力によって差がでます。
それに耐えられない。

狩猟系の思考回路だと、そうはならない気がするんです。
目の前にライオンがいて、昨日ライオンを手に入れたのはAさんだから、
次はBさんね、なんて順番を気にしながら狩りをしていたら、
ライオンはどこかに行ってしまいますし、
何よりライオンを射止められるかどうかと考えたら、
順番でチャンスを与えるよりも、上手い人にやってもらって
成果をわけてもらう方がいい。

タネを蒔いてコツコツ育てて、次第に実になっていく農耕民族は、
一か八かの勝負をかけるよりも、コツコツタイプの努力が得意なんでしょうね。

グローバリゼーションで、行列におとなしく並ぶ私たちのところに、
並ぶなんて考えられないという、某国人が大量にやってきたら、
わたしたちどうなるんでしょうってちょっと心配してしまいますが、
それはさておき。

行列が好きなのは、
成果が必ず得られること、成果がいつ得られるかがわかりやすいこと。
これが3つめの理由だと思います。
ミーハー魂、他者の賞賛、報われる努力。
どうでしょう。


でもね、本当の努力っていうのは、成果が約束されていない時に、
限界まで挑む行為のことを呼ぶんだと思うんです。
「行列に並べば、パンケーキが食べられますよ」という時の
行列に並ぶことを、努力とは言わないですね。
でもあのパンケーキは、
「苦労して手に入れた」的な立ち位置なんだと思います。

限界まで挑もうとする努力のなかでも、
最初から成果を期待しての努力は、限界が早くくるとも思います。
「東大に入ったら、お金がいっぱい稼げますよ」
「やせたら、いい男と結婚できますよ」
「あの上司に気に入られたら、出世できますよ」
そんなふうに最初から成果を期待して努力していると、
限界点が低い気がします。
つらさに対する耐性が低い。

1日30分聴くだけで英語が話せるようになる!
毎日この体操を続ければ必ずやせられる!

約束付きの商品って、たくさんありますが、
多くの人は途中で挫折します。
約束がないとやる気にならないのは、
もともとのモチベーションが低いってことなんだろうなあ。
そこに「ワクワク」はない。

パンケーキの行列の話が、努力論になってしまいましたが、
「並ぶ」という行為が受け身過ぎるような気がしているんです。

今日は何で私はヘアサロンに行く度にイライラしているのかと、
懸命に考えたのでした。
暇だったの。


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「自信がない」症候群

こころ満つる 宿坊の旅
東京書籍
1470円


これはNHKBSの番組を書籍化したものですね。
番組は、2007年に始まり、女優さん、作家さんたちが、
それぞれ日本各地の宿坊を訪れ、修行を体験する様子を紹介したようです。
仕事で読んだのですが、面白かったので紹介します。

この本には、2012年に登場した10人の宿坊体験がまとめられています。
登場するのは、一色紗英さん、MEGUMIさん、木村多江さん、
原沙知絵さん、南果歩さん、白石美帆さん、押切もえさん、
中越典子さん、草刈民代さん、鈴木砂羽さん。

皆さん、修行した宿坊は異なりますから、
修行の内容もそれぞれ。瞑想だったり座禅だったり、写経や読経、
掃除、料理、あるいは山菜摘みなんてのもあったり。
修行中はほとんどの方がノーメイクで、
素の自分と対峙する様子がうかがえます。

バレエから身を引き「よりどころをなくしてしまった」
と戸惑う草刈民代さん、女優として演じることが生き甲斐になる一方で、
「素の自分はどこにあるんだろう?」と思い悩む南果歩さん、
映画などの撮影現場で自分の意思を上手に主張できないと悩む白石美帆さん、
「小さなことを気にしすぎるんです」と打ち明ける押切もえさん、
何だかもうほんと、みんな仲間な感じです。

どこかでつねに自分のやっていることに自信が持てないんですよね。
輝いているように見える女優さんたちだって、
同じような悩みを抱えている。
有り余るほどの情報が手に入って、いろんな人がいろんな活躍をしていて、
そこで「自分に合った方法でいいんです」と言われても、
「それがわからないから悩むんです!」と口答えしたくなります。

だけど本当に「自分に合う方法でいい」のですね。
それがわからなくなるのは、情報が多すぎるから。
自分を認めないから。
答えはあるのに、自分はそれを見ようとしない・・・。
ここにものすごく大きな溝があるのだろうと思います。

私は最近、何でも自分のやり方を肯定する方向を志しています。
どんな些細な事柄でも「こうすべき」という意見が数多ありますけど、
それって全部過去の例。
自分が自分のやり方で成功した初めての例になればよいんですもん。

名刺を切らせてしまって「フリーランス失格だ」と
大切な取材の直前に気付いて落ち込んだとしても、
それが相手に自分を覚えてもらうきっかけになる場合だってあります。
「あ、あの時名刺忘れて来た人ね」と。

ライフハック的な視点からは「名刺は切らさない」のが常識ですけど、
それにこだわりすぎる必要はありません。
フリーランスとしてやっていく5つの条件だとか、
30の条件だとか、ネット上にはあれこれ語る人もいますが、
それは、その人の理念であって、自分に合うかどうかはわからない。
「名刺を切らさない」とか、すぐに「お礼メールを書く」とか、
そういう世間で言われるところの「正しい行動」をなぞることに
躍起になってしまうのは、何かへんだと思います。

宿坊体験をしたからといって、ただちに自分が変わるわけでもないと
思いますが、何かのきっかけになるのかもしれません。
だけど、それがきっかけになった、と気付くのは10年後なのかもしれません。
宿坊から戻ってひと月後にふと「あれ? 私、何も変わってないじゃん」と
落ち込んだりしながら、少しずつ変化していくのだろうと思いました。

読んでいると、この10人と円陣組んで、「みんな、がんばろーね!」と
大声を出したくなったのでした。


posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 10:51 | 書評 | comments(0) | trackbacks(0) |
「謙虚」が最高のほめ言葉?
私の育った時代がそうだったのか、
それとも住んでいた地域がそうだったのかはわかりませんが、
「差別はいけない」ということをものすごく徹底して教えられたんです。

私が生まれ育った明石市では、「総合選抜」で高校入試の合否が決まりました。
市内にある高校はすべて学力が均等になるよう、生徒を振り分けるんです。

野球部に入りたいのに、野球部のない高校に入学が決まったり、
身体の弱い子が、駅から徒歩30分以上かかる高校に通うことになったり。
中学時代のいじめっ子グループと離れたいと思っても
実質かなわないような制度でした。

楽天の三木谷社長は、同じ明石市の出身で学年がひとつ上なのですが、
この制度を回避するために私立中学を受験したそうです。
今、思えば、明石市在住の「意識の高い」保護者は、
子どもに私立中学を受験をさせるか、あるいは市外へ引っ越したと思います。
三木谷さんは、進学した私立中学が地元で有名なスパルタ受験校で、
結局退学して地元中学、地元高校となるわけですが・・・。
(灘や甲陽は受けなかったのかしら?)

私からすると希望した学校に通えない、とんでもない制度なのですが、
子どもの数がどんどん増えていた時代で、
高校入試も”受験戦争”と呼ばれていましたから、
「15の春は泣かせない」というキャッチフレーズの通り、
子どもたちの「ため」になる制度だという触れ込みでした。

受験はラクラク。
入学後は、通学している学校によって差別されない。
お互いに劣等感や優越感を持たなくてすむ。
子どもたちの「平等」を貫ける理想的な制度と言われていました。

差別の問題でいつも感じるのは、
「通学している学校によって差別されない」メリットを強く
訴える人こそが、「通学している学校」を気にしすぎているのでは
ないかということ。

たしかに「○○高校に通っているんだ。すごいね!」という
言い方をする人はたくさんいますが、それが何? と思うんです。
それは差別なのかしら。
事実ではあるし、多少の羨望はあっても、たぶん言った人は
さほど差別には囚われていない気がします。
なのに、隣にいた1ランク下の高校に通う人が
「あなた、私のこと差別してるでしょ!」と騒ぎ立てる。
騒ぎ立てている人が、それを差別だと「感じた」だけなのに、
いつしか差別という「事実」があると置き換えられる。

「差別だ」と言われると、黙り込まざるを得ないんですよね。
特に関西という土地柄では、そういうことが多く感じられました。

差別がいけないということが、誰もが、優越感も劣等感も感じないで
いられる社会に結びつき、あのような制度が生まれてきます。
私自身は、この制度をとても理不尽に思っていました。
それなのに、この「優越感を持ってはいけない」という思想が
今も自分の思想に刷り込まれていて、すごく嫌だなあと思っています。

人はつねに謙虚であらねばならない。
有名人になるなんてとんでもない。
そういう呪いのようなものがすぐに頭の中に広がってくる。
私自身に、もともとそういう思想と親和性があったのだと思うのですが、
とにかく、人を出し抜くとどこかで後ろ指立てられるんじゃないか、と
いう気がしてならない。

林真理子さんは『野心のすすめ』のなかで、
高校受験で、内申書を書き換えてもらって、本来自分の学力では入れない
高校に入学した、と書いておられました。
「ずるい」と言われてもまったく気にならなかったとか。
そういう強さにすごく憧れます。

そんなことを考えているとふと、
震災のあった2011年の紅白歌合戦で、
ユーミンが「春よ、来い」を唄った時のことを思い出しました。
これも、私の感覚からすると逃げ出したくなるようなシーン。
そもそもユーミンは紅白に出場するタイプの歌手ではなく、
出場もあの時で2回めでした。

私がユーミンなら、あの歴史的な年の、
演歌系の方々も多数出演する国民的歌番組に
出場することの意味を考えると、きっと怖くなるだろうと
思います。

もちろんユーミンとて、不安はあったかもしれません。
でも、出場して堂々と歌い上げるその姿は本当に立派でした。

いろんな方たちを見ていて、私自身が敏感に反応するのは
つねにそういう部分。
「そんなことができるのか、すごいな」と。

私の感覚の深いところで、つねに「はい! 私はできます」と
胸を張ることを拒否したい欲望があります。
「できません」と言った方が、ある種のポリティカルコレクトネスだと
思い込んでいる。
私は、謙虚だと人から思われることを最上の美徳とする世界に
生きているんでしょうね。
たぶんそういう人は、案外多いと思います。

でもこれって、自分の価値基準よりも、
他人の価値基準を優先しているということになる。
だから互いを縛り付ける。
私は、自分のそういう意識をなんとか壊したい。

これはもう、母と娘問題同様に、こうやって考え続けて
「自分を変えたい」という意識を持ち続けるしかないですね。

気をつけたいのは、考え続ける目的は、
「自分を変えたい」からだという認識を持っていること。
「自分は本当にダメだなー」と自分を否定する方向に落ちていくと、
どんどんつらくなります。

そこだけ気をつけつつ、精進したいと思います!

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 11:01 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
母と娘ふたたび


「母」がいちばん危ない
”いい娘”にならない方法
斎藤学・村山由佳
大和書房


 友人がよくtwitterでお母さんの愚痴をこぼすんです。
本人はイライラしているのですが、読んでいると面白いんですよね。
慰めたりなんてしません。
夫婦喧嘩と同じで、犬も喰わないって感じで、またやってるな、と。

読んでいると、要するに、彼女はお母さんに認めてもらいたいんだなと
感じるわけです。
お母さんの前でだけは7歳くらいの子どもに戻る。

私はこんなに心配しているのよ!
お母さんの幸せを祈ってるだけなのに、
なぜそれがわからないのよ!

でも、たぶん2人は似ているんだろうなあと思うんです。
お互い素直になれない。
その様子は微笑ましくすらあります。

他人事だと、そんなふうに冷静に読めるのに、
ひとたび自分の身に降りかかると、これがもう大変。

私も週末一悶着ありました。
久しぶりに怒り沸騰!
夫も息子も怒り狂う私の姿から目をそらし、
なんと夫は黙々と晩ご飯を作ってくれました。
触らぬ神にたたりなしってなもんですね。

「いま一番言ってはいけない言葉はね、
でもなんだかんだ言って、2人は似てるんじゃないの?
だからね!!」
言われる前に先手を打って、なお吠えまくるわたし。

私が母に言いたいのは、これ。
「だいたいお母さんはいつもケチつけるばかりで、
私のことだってほめてくれたことがないでしょう!」

アラフィフにもなってこういう思いを昇華できない自分が
情けないです。
しかも「ほめてくれたことがない」は間違ってます。
たまにはほめてくれます。
でも、それは認められないんです。
認めたら、私の40年以上におよぶ母との確執の意味がなくなりますから。
ほんと厄介な感情です。

作家の村山由佳さんも母との確執に悩んだ1人。
放蕩記の読書録は以前書きました。


今日紹介する本は対談集で、お相手は精神科医の斎藤学さん。
なかなか面白いです。
対談のなかで村山さんが自分はAC(アダルトチルドレン)
じゃないかと言うんです。

ACというと特別な感じがしますが、かなり多くの人が
大なり小なり当てはまるのではないかと思います。

斎藤先生は、
「みんなにいい人と思われたくて、あまりにそれが強過ぎて、
すぐみんなの意向を汲み取ってその通りに動いてしまうから、
自分が本当に何を望んでいるかわからないまま生きちゃっている」人
と定義しています。

嫌われたくないがために、自分の気持ちとは裏腹な行動を
とってしまうことは、たぶん誰もが抱え持つ側面だと思います。
その裏には自己評価の低さがあるのかもしれませんね。
奔放にやっているように見える人でも、
その「奔放さ」を人から支持されていると感じるから
続けられるのかもしれません。
自己評価がものすごく高いように見える人が、
じつはすごく自信のない人だったりもします。

このACという言葉は、アメリカから生まれたそうで、
え、アメリカ人も人から嫌われるのが怖いの?って
ちょっとビックリしますが、人類が普遍的にもつ心性なのでしょうか。

私自身は「いい人と思われたい」と強く思っていない面も
あるのですが、「いい娘だと母から思われたい」欲は
否定しようがなく、ダメだしされると7歳の私が泣いて怒ります。
ほんと厄介・・・。

この手の本を読んでも読んでも、7歳の私は7歳のまま。
なのですが、今回はこの本を読んだおかげで、
ふと「ダメだし」しているのは本当に母なのか、と思いました。
それよりも私自身が、
母からダメだしされる自分に、ダメだししているだけではないのか。

だから、母からダメだしされる自分を
「私」が許せばすむ話なんじゃないの?って。
母の願いを叶えられない自分に、がっかりする必要はないんですよね。

とにかく娘は母に幸せに生きて欲しいんです。
その思いが強過ぎて、愚痴をこぼす母に耐えられない。

これ以上私に何をしろっていうの?
とイライラする。
でも、たぶん何もしなくていいんです。
母が不満をたらたら垂れ流すのは、ただそうしたいから。
私のせいではないし、
私が母から好かれなくても仕方がないこと。
・・・と7歳の私が理解できるようになるのは、もう少し先のようです。

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 09:05 | 母と娘 | comments(0) | trackbacks(0) |
モテ期到来
 昨日、某駅前のカフェでランチをしておりましたら、
70代くらいの男性が入ってきて目が合いました。
深い意味はなくニッコリしたら、話しかけられて。
適当に相づちを打っていたら、おじさんノリノリ。

そのうち、隣のテーブルにいってもいいかということになり。
年齢の割りにこざっぱりとしているのは、女性の家族がいるから。
だけど話し相手が欲しいということは、家族内で人気者ではなさそう。
でも悪い人でもなさそうなので、笑顔で「どうぞ」と答えたら、
おじさん、大喜び。

「こんな美人の近くでメシがくえるなんて、幸せだなあ」
あたしだって、美人よばわりされて幸せですわ、と
心で返事をしながら微笑み返したところ、
いきなり「ね、ここの食事、僕にごちそうさせて!」
おじさんにっこり。わたしもにっこり。

本当の美人はこういう時「ありがとう♡」で済ませるはずですが、
美人経験の低いわたしは、ついオロオロ。
年金の財源が怪しい昨今、年金生活者に無駄遣いさせていいものでしょうか。

「ところで、お父さんはいるの?」
は? お父さん? 
もしかしてわたし、10代に見える?

・・・ってことはないですよね、と思っていたら、
「オレ、殺されたら困るからさ。最近多いでしょ」と。
ああ、これは夫のことね。
「家にいますよ」
「今日は、ここに来てないよね? 
こんなとこでこんなことしてるの見つかったらマズいからさ」
こんなことってなんすか、と思っていたら、
「で、お子さんは? 1歳、2歳?」

1歳・・・1歳!? 
もしやおじさん、アラサーとアラフィフの区別がつかない?
ここはおじさんに夢を持たせてあげた方がいいところよね?
今日は「若い女性」と話をした、と思うか、
「おばはん」と話をした、と思うか。
そりゃ「若い女性」と話をしたと思う方が、
夢見がよくなるはず。いや寿命だって伸びるかも。
私が見栄をはっているのではないの。
これはおじさんのためなのよ!!


「まだなんですぅ」

まだ。
子どもはまだ。
大学生と高校生の息子がいますよ?
「あほ言うたらあかんがな」ってハマちゃんに
どつかれますよ?
でもわたしの中の天使は「嘘をついておけ」と言います。
人々の幸せを祈るのが天使なのです。

そんな葛藤を無視するかのように、
おじさん、ふたたび消費税の話を始めました。
税率がアップしたら、年間の支出がどれくらい増えるか、
あれこれ試算しようとして頭の中がこんがらがってきたところで、
唐突に「じゃ、オレ帰るから!」
お姉さんの代金いくら?
ランチは780円だよな? 
じゃ、オレが500円払っとくよ!

微妙に280円値切られたのは、
嘘が方便にならなかったということ?
もしや気分を害してる?
わたしの心に微妙にざらっとしたものを残しつつ去っていた
おじさんなのでありました。



posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 10:50 | - | comments(2) | trackbacks(0) |