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ライター今泉愛子のブログです
ネット界にチンピラ発生!
街でチンピラに絡まれた時にどうすればいいか。
高校時代、私の周りでは、ああすればいい、こう言えばいいと
よく話題になっていました。
どれも現実には役に立たないような策でしたが、
最寄りの繁華街といえば、神戸・三宮のセンター街だったので、
チンピラが身近で、それだけ切実だったのかもしれません。

最近、身近なのはこれ「繊細チンピラ」。
チンピラが繊細ってどういうこと?と思いますよね。
まずはこちらのサイトを見てください。
http://togech.jp/2013/09/12/3445

あまりに秀逸で大笑いしました。
舞台はtwitterです。
山に登って「ハイキング、楽し〜!」とtweetします。
何も問題ないと思われます。

ところが・・・。
「当てつけかよ!」
と返してくる人がいる。

「会社から帰宅して唖然、今日化粧し忘れてた・・・orz
してもしなくても誰も気付かない化粧スキルの低さよ」
とtweetしたところ、
はいはい「スッピンでもかわいいちょっとドジな私」アピール乙」と
返してくる人がいる。

どうなんですか、これ。
「ハイキングに行けない私に配慮して、
そういう発信はやめてください」
「スッピンではとても出歩くことができない
アラフィフおばさんに配慮してください」
ってこと?

繊細チンピラとは

「自分に欠けている何かを持っていることに無自覚な他人の発言を
勝手に自慢と受け取って激昂する人」

つまり、弱者の立場を利用して意見を通す人 

自分はつらい。
ハイキングに行けなくてつらい。
かわいくなくてつらい。
でも自分では解決できない(と思い込んでいる)から、
その怒りを他人にぶつける。
この繊細チンピラが、どんどん増殖しています。

私も前にこんな発言をしたんです。


これは、私のパンケーキ問題の発端となったtweetですが、

すると、

パンケーキごときと書いてる時点で食べ物を見下してるな、自分の価値に合わない行動を見下すのは自由だが、人によって価値観が違うというのを知っておいた方が人生楽しいと思う。 何でラーメン屋に並ぶの?とか言う人がいるが、じゃあスーパーや役所でも人の列があったら諦めるのかな。


とtweetした方がいて。
この方は、月に一回築地で人気の寿司屋に行列するのが楽しみだとか。
私をフォローしているわけではなく、
恐らくは「行列」と検索してひっかかったのが
私のtweetだったのだろうと思います。
そして、行列を軽蔑するような私のtweetにちょっぴり傷ついた。

この方は、さほど怒っていませんし、
たぶん私の発言もすぐに忘れたと思いますが、
きっと色んな反応がtwitter界には、あるのでしょうね。

私などはまったく有名人ではないので、
こういう反応が来ることは、稀なのですが、
有名人たちは、本当に大変そう。

さっきも堀江貴文さんが、twitterで絡まれていて、
「お前ゲスだね」と返したら
「自分の本の読者にアホとかゲスとか言っちゃって良いんですか?
ミリオンセラーを狙ってるなら読者を大切にするべきです。
謝ってください」と言っている人がいました。

最初に絡んだのは、この人なのですが、
弱者は何を言っても許されると思っているんですね。

こんなふうに弱者が武器になる一方で、強者を武器にする人も
twitter界にはいます。

「自分はエラい」「何でも知ってる」とばかりに
若い人に説教を垂れる人たちです。
自分は何でも知ってる、と自分で思い込んでいるだけで、
上から目線で発言してよい、ということになり、
ああだこうだと説教をする
先日、書いたイケダハヤトさん周りには、そういう方がウヨウヨいます。
勝手に、説教(アドバイス)をしておいて、相手が感謝しないと怒る。
こちらもまた非常に扱いにくい。

説教チンピラ?
おっさんチンピラ?

説教チンピラは、
「そうですね。ありがとう♡」で乗り切るしかないのかしら。
でも、恐らくこのタイプの人は日頃感謝され慣れていないので、
一度感謝すると、どんどんアドバイスしてくる、という悪循環になりそう。


ところで、年末が近付くと女性の間ではよく
「子どもの写真付き年賀状」の是非が問題に上がります。
自分とは何の関係もない子どもの写真を見せられて苦痛なので
送らないでほしい。
子どものいない私(結婚もしていない私)に、
そんな年賀状を送るなんて、配慮が足りなさすぎる。
非常識。傲慢。感じ悪い。

大手小町などでもきっと恒例ネタだと思います。
私の友人のなかにも「子どもの写真付き年賀状を送って来る人の
気が知れない!」と怒っている人がいました。
私も、子どもたちが小さかった頃には、写真付き年賀状を作っていました。
もちろん写真付きではない年賀状も作っていて、
私の子どもと何の関係もない人にはそちらを使っていました。
数で言えばそちらの方が多かったです。
マナーもありますが、そもそも写真付き年賀状は高価なので、
喜ばない相手に出すのはもったいないですよね。

でもじつは、その友人には、その高価な写真付き年賀状で出していたんです。
なんてひどいワタシ。
嫌がらせかよ!って、そうなんです。嫌がらせなんです。
その友人がイライラする姿は容易に想像がついたのですが、
そんなことで毎年イライラして「私のイライラに気付いてよ!」と
他人に毒づいていたら、人生やってらんないよ、と言いたかった。
通じたかどうかはわかりません。
というか、嫌われたかも。

でも、そういう理由で「あんなことをする人は友人じゃない!」と
怒っていたら、彼女の友人リストからは人がどんどん減っていきます。
人のアラを呑み込むか、
怒りに任せて友人リストから消去していくかってことなんですよね。

チンピラって、親分にはなれません。
どんな世界であっても、上に立とうと思えば、
自分の立場よりも人の立場を思いやれる器が必要です。
「私はつらい」「私は不快だ」と自分の立場を第一に主張していても、
解決しないことがほとんど。
たとえば、子どもの写真付きの年賀状が届いたら、
「子どものいない私に配慮してよ!」と怒るか、
「そっか、あいちゃんにも子どもが出来たんだ。
年賀状作るくらいうれしいんだな」と温かく受け入れるか。
相手に悪意がない限りは、受け入れてもいいと思うんです。
もちろん、たまにいると思いますよ。
見せびらかしたくて仕方がない人や
結婚していない友人より優位に立ちたくて
出す人もきっといます。
この場合「チンピラ」は出す方かもしれませんね。
でも、その悪意に対抗しようとイライラ怒っても仕方がない。
基本はスルーしかありません。
私の友人は「チンピラ」ではありませんが、
私自身は「配慮しない」ことを選んだわけです。

ネット上で「配慮せよ」とねじ込んでくる
繊細チンピラには、どう対処すればいいのか。
毅然と「NO」と言っていいのだと思います。
チンピラには、金品を求められても「NO」
配慮を求められても「NO」
感謝を求められても「NO」

「かわいそう」「配慮しなきゃ」なんて思う必要はない。
リアルなチンピラを思い浮かべれば、よくわかります。
安易に「ごめんなさい」「これで許して」と千円渡しても
それで解決するのかどうか。

そもそもこういう時には、まず相手を「チンピラ」だと
認識することが大切なのかもしれません。
街のチンピラと違って、繊細チンピラは識別しにくい。

相手が自分の本を買ってくれた「読者」だとしたら、
「感謝しなきゃ」とひとまず思ってしまいます。
読者だから何を言っても許されるわけではないのですが、
彼らが繊細チンピラとなって絡んできた場合、
「読者を傷つけた」「申し訳ない」
「相手の不快感を解消したい」と思ってしまうと
相手の術中にはまってしまいます。
ネットの人間関係って、すべてが「誠意」で解決できるわけではない。
どこかで線を引く必要があります。
読者であっても、客であっても、あるいは仲間であっても、
チンピラはいる、と理解しておくのも
ネットリテラシーとしてはすごく大切なのかもしれません。

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 09:53 | - | comments(0) | trackbacks(0) |
「人」としての勢いのある時期
昨日は分を知るという話だったのですが、
今日は分をわきまえすぎるとダメという話。
 
ライターになる前の専業主婦時代に、
LEEのファックスモニターというのをやっていました。
たまたま手にしたLEEで募集をかけていて、
すぐに応募して、10人に選ばれました。
たしかファックスがもらえたんですよね。

内容は、毎月LEEが届いて、記事に対して
コメントをするというもの。
謝礼は、月に8000円くらいだったと記憶します。
15年くらい前の話です。

当時2人の幼児を抱える主婦で、暇を持て余していたので、
めちゃくちゃ熱心にやりました。
すべての記事に対して細かく丁寧にコメントを書いていました。
企画も毎月あげていましたね。

が、そのレポートを何人が真剣に読んでいたか。
いま雑誌の編集部を知る立場としては、かなり空しい感じです。
編集部は「読者の意見」は大切にしています。
でも私が書いていたレポートは、読者という立場を忘れて、
編集者に「意見する」くらいの意識がありました。

編集部が求めるのは「読者」としての意見。
「このページのなかでは、この服が欲しいと思いました!
私の友人も、ちょうどこういう服を買ったところで、
その人は、こういうバッグと一緒に持っているんです。
すごく合っててカッコいいんですよね。
友人の間でも評判です」

みたいな話だと、たぶん編集部は参考になるのですが、
私が熱く書いていたのは、
「この撮り方だと、シューズがよく見えなくて残念でした」
みたいなことで、
いやいやいや、ファッション誌の編集部なんだから、
そんなことは百も承知で、その写真を選んでるんだってば!
って感じです。
この立場の読めなさが、いま思うとものすごくイタイですね。
だけど、何でしょうね。
あの無鉄砲で怖いもの知らずで、夢中にレポートを書いていた時代が
あるから、ど素人からいきなりフリーライターになるという暴挙も
実行できたんだと思います。
要するに、私に勢いがあった時代!

今の私は「意見」を伝えることが、すごく苦手。
というのは、分をわきまえることを自分に課しすぎていて、
「私が言っても仕方がないだろう」と思ってしまう。

一方的に批判するわけでもなく、
自分が思っていることを適切に表現する話し方が
できないんでしょうね。

いま出ているHERSで、私が担当している裏地桂子さんの連載「ウラヂエ」では、
「上手なダメ出し法」を書いているのですが、
たぶんかなり自分の願望も反映した記事になっている気がします。

裏地桂子さんは、ギフトコンシェルジュという肩書きを持つ方で、
その仕事柄、色んな方から色んな物を紹介されます。
それをいちいち「あら、素敵ね」なんてやっていたら仕事にならない。
ダメなものはダメという。
きちんと自分の美意識に沿った発言ができるから、
その仕事が成り立つわけです。

私は、レストランに行って「美味しくないな」と思っても、
「勘違いかもしれない」「たまたまかもしれない」
「一度だけで判断しちゃダメ」と思うあまり、
正直に言えないことが多いです。

それを伝えたとしたら、
「すみません。もしかすると今日は○○だったから、
ちょっと塩が足りなかったのかもしれません」
というような話が聞けるかもしれないのに。

このあたり、私の課題なんですよね。
謙虚さを必要以上に課してしまう。
それだと「人」としての勢いがない感じがします。

もっときちんと意見を言えるようになりたい、というのは
小学生の学級会での悩みみたいなんですけど。

「自己評価を正しくする」ことと
「自信を持つ」ことのうまいバランスを見つけたいなと
いつも思うのですが、
たぶんそれは目標ではなく、結果としてついてくるものでしょうね。
『ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない』ってことなのですが。
無理矢理、本の紹介につなげました。


posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 10:56 | 書評 | comments(0) | trackbacks(0) |
「本を出したい」という欲望〜世間とどう取引するのか?
 大した努力もしないくせに、プライドだけは異常に高く、
どこかで自分だけ「特別」と勘違いして、いつも人の努力は認めず、
人のいうことを素直に聞けない。そのくせいつも後悔ばかり。

「あの時やっておけばよかった」といつまでお前は言うんだ?
武藤良英、荒川佑二
講談社

これは、仁藤雄三さんという方のtweet(@YuzoNito)からの文言で、
私はこの本を読んでいないのですが、
思わず「あるある」と膝を打ちました。

「本を出したい」という相談を受けることがたまにあります。
電話がかかって来て、折り返すとその手の相談で、
あれやこれやと話を聞くことになって、
あ〜私の時間、あ〜私の電話代、と思うこともあれば、
ぐっと親身に話を聞くこともあります。

親身になれるのは、やはりご本人が、
本を出すことについての謙虚さがある場合ですね。

「本を出したい」人には二通りあって、
ひとつは、文章を書くことを仕事にしたいと考えている人、
もうひとつは、本業があって、それを本にまとめたいと考えている人。

本業がある方には、本業にとにかく専念していれば、
道は自然と開けるから、と話します。

文章を書きたい人(たとえばご自身の旅の記録や闘病記、
あるいは育児関連とか)には、
まずはブログなどで発信してみては?
ブログで発信している人には、読者を増やす努力を
徹底的にやってみれば?
と話します。

こういうふうに伝えた時に、
「わかった、がんばる!」と言う人もいますが、
「今泉さんって、自分が本を出したこともないくせに、
エラそうなこと言うよね。相談する相手、間違えたな」
的な反応をする人もいるんですよね。

そうです、間違いなんですよ。
てか、時間返して。
って思っちゃいますよね。
勝手に期待して、勝手に落胆しないでほしい。

なのですが、そういう人の心理は、
冒頭のような感じかな、と思いました。

自分を認めない世間にいらだっている。
いらだちの大きさは人それぞれで、
割り切っているつもりでも、いらだつことだってあります。

でも、自分が世間でどの程度の評価を受ける存在かを
きちんと自分で把握できないと、
方針を定められないんですよね。

「ブログで発信してしまうと、パクられませんか?」
っておっしゃる方もいるんです。
パクられてつぶれる程度のものなら、もともと通用しませんよ、と
言いたいのですが、その「感覚」が理解してもらえない。

以前、レシピの話も書きましたっけ?
(もしかしたらtwitterかも)
料理研究家としてやっていきたい、という方に、
「ではレシピを見せていただけますか?」と聞いたら、
「見せられません!」って強い口調で断られたんです。
レシピというのは、料理研究家にとっては何より大切なもので、
他人にタダで見せるわけにはいきません、と。

じゃ、私は何であなたの料理を判断すればいいのでしょうか?
って話なのですが、
ご自身で売り込みに来て、それはどういうことなのか、と。

文章を書くことが好きだという方が、時折、私のもとに
ご自身の書いた文章を送ってこられていたんです。

時にはエッセイであったり、時には小説のようなものであったり、
時に詩であったり。
それで、「文章を書く目的は何でしょうか? 具体的な目標はありますか?」
と聞きました。
もしエッセイを上手に書きたいなら、字数やテーマを定めて書き続けるのも
ひとつの方法ですよ、と返信したら、

「名を成したいとか人々に読まれたいというような
他人に媚びるような子供じみた動機ではありません」

ということなので、大人の動機でがんばってください、としか
言えません。

自分に市場価値があって、それと日々向き合っていくなかで、
過大評価することもなく、かといって過小評価もせず、
コツコツと努力を積み上げていく。
そういう話がなかなか通じないです。

女優さんとして大活躍している方が、
「わたし、本当は歌の方が好きなんですよ」と
おっしゃっているのを聞いたことがあります。
でも、市場は歌手としてより、女優としての彼女を認めた。
その期待に答える形でがんばってきて、
ようやく女優としての自信がついてきた。

売れっ子女優さんですら、そういう葛藤を抱えているわけですが、
過剰に自信を持つ人は、自分は「特別」なので、
ありのままの自分を、世間は受け止めてくれると
思ってしまうんですよね。

世間に媚びることと、世間と折り合うことはまったく違います。
媚びるというのは、世間を低くみているのだと思います。
「世間なんてちょろいもんさ、
こうやっておけば、満足するんだろ?」というような感覚。

飲み屋のおねーさんにもそういう方、いらっしゃいますよね。
「男なんて適当に相づちうっときゃいいのよ」な感じ。
もちろんお商売なので、本気で同情したり共感したりしていたら
身が持たないとは思いますが、相手への敬意がどの程度あるか。
まあただ、大半の男性は、「適当な相づち」に満足しちゃうわけで、
素人女性(わたしね)から見ると「ああ〜ほんと男ってバカ」と
思ってしまうんですが、それは置いておく。

で、仕事って「世間」とどういう形で取引するかってことなのですが、
ありのままの自分が認められるはずだ、と信じている人には、
取引の形がわかりませんし、
あまりに言い過ぎると「仕事にしたいとは思っていないんで!」
ってことになります。
はい、わかりました。

ちなみに、私に相談してくる方は、
私が褒めると、喜んでくださいますが、
私が「この点をもう少しこうすれば?」的な話をすると
「あなたにとやかく言われたくない」的な態度に
なる方が多いです。

それも私への評価だと思いますので、
さほど腹は立たないんですが、
「目を閉じたまま夢を見てちゃダメですよ」と思います。


posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 10:48 | 仕事 | comments(0) | trackbacks(0) |
安井かずみがいた時代 人は失うことをなぜ恐れてしまうのか
昨日紹介した安井かずみさんの本を読んでいると、
この人は、「加藤和彦を失いたくない」という気持ちが
どんどん自分を縛って、
太ってもダメ、だらしなくしてもダメ、つねに夫を立てる、
とたくさんの要求を自分に課して、
そんなことをしているうちに、
今度は、夫にも要求したくなり、
自分以外の女性と親しくしないでほしい、
いつもどこで何をしているかを知らせて欲しい、
プライベートの時間はすべて自分に向けて欲しい、

とエスカレートしていったのかな、と思いました。

 

お金も時間もたっぷりあって、素敵な夫もいるのに、

それを失うことが怖くて仕方がない。

 

こういう状況って、いたるところで見かけるかもしれないな、と

思いました。

 

愛人を作った夫と別居中の妻の話。
「私が離婚を承諾したら、あの2人は
大喜びするでしょう。それが耐えられないの。
私の不幸と引き換えに、2人を幸せにするなんて、
どう考えてもおかしいでしょう?」

というのもよく聞く話ですが、

それって本当に不幸と幸福の交換なのかしら?

 

別れることで、彼女には新しい展開があるかもしれません。

もちろん、ないかもしれません。それはわからない。

でも「ない」と決めつけているから、不幸なのでは?

「わからない」ことを不安に思うか、

「ま、いいか」と思うか、それは性格によるところも

大きいでしょう。

だけど、不安に感じるのは「自分」で、

不安に感じなくてはならないわけではない。

 

夫を失ったら、ボロアパートで一人暮らしすることに

なるのかもしれない。

でもそれって、不幸なのかな?

「そりゃ、不幸だよ」と思う人も多いでしょうが、

それが「不幸」で、

愛のない夫と別れないことを「不幸」ではないと

決めつけるのはなぜなのか?

 

変えて不幸になるのと、変えないで不幸のままでいるのとなら、

人は変えない不幸を選ぶんでしょうね。

 

「幸福とか不幸とかそういう問題としてではなく、
とにかく耐えられないの!!!
夫が別の女と2人で幸せになることが」
と言われたら、「なるほどね」と言うよりほかはなく、
他人の生き方にあれこれ注文をつける気はまったくないのです。

でも幸せって「心のもちよう」ではないかしら、と。

 

「孤独死」という言葉があります。
否定的に捉える人が多いんですよね。
でも私は孤独死って、何がどう不幸なのかわからないです。
「家族に見守られながら、自宅の畳の上で死ぬことが幸福」だと、

誰が決めたのか?

 

交通事故で死ぬことだってあります。
長い闘病の末、病院のベッドで深夜に静かに
息を引き取ることだってあるでしょう。

それを「不幸だ」と言うのは、あまりに傲慢じゃないでしょうか。

 

死に方は、基本的には選べません。
畳の上で家族に看取られながら死んだとしても、
それは「たまたま」です。
それを望む人は、理由を探すかもしれません。

彼は行いがよかったからだと解釈する人もいるかもしれません。

 

でも、行いがよければ、そういう死に方ができる、と

思った瞬間に、執着が生まれます。

 

未来なんて何もわからないのに、
「家族に見守られながら自宅の畳の上で死んでいく」ことを
願うから、余計な不安を抱えることになる。
そうならなかったらどうしよう、と心配する。
そして自分を、さらにその延長上にいる家族を縛ってしまう。

不安との闘いが始まるのです。

 

 

人によっては深い悲しみを体験することもあります。
映画にもなった『ソフィーの選択』のソフィーもその1人で、
わたしは、このシーンを思い出すだけで、
涙がこみあげてきます。
子どもを失うのですが、母親として、

あそこまで過酷な状況はそうないと思います。

 

ソフィーは、その後の人生をどう生きるのか。

ここからは私の創作です。

映画や小説とは異なります。

 

ソフィーは、その後、ふぬけになってしまいます。
自分が生きているのか死んでいるのかもわからないほどの

悲しみを背負って、その後の人生をただ生き延びるだけ。

 

ところがある時、ソフィーはふと頬を撫でる風の優しい感触に気付きます。

あれ? 風ってこんなに優しいものだったかしら?

 

その瞬間に、ぎゅっと心を堅くして、

「わたしは、あの子のことを絶対に忘れてはならないんだ」と

思い返して、悲しい想い出にとらわれ続けるか、

それとも、

「もしかすると、あの子が私の側に来て、
息を吹きかけてくれたのかもしれないな」と感じるか。

亡くなった最愛の子どもからの励ましと感じるか。

 

それも心のもちようだと思います。
その瞬間を迎えるのに、10年かかるかも
もしかすると20年かかるかもしれません。
でも、そうやって自分の悲しみを手放せる瞬間が

訪れることもあるかもしれない。

 

「あの子のことを絶対に忘れてはならないんだ」と
心に決めてしまって、その決意だけをひたすら反芻する必要は
ないと思います。
もし風の優しさに気付く瞬間があったとしたら、
その気持ちを味わってみる。
「心地よいと思ったらダメ!」
「私は不幸でいなくちゃダメなんだから」と
自分を縛るのではなく、
風の心地よさに気付こうとしている自分を認める。

ソフィーの場合は、それが自分を「赦す」ことかもしれません。

 

どんなに深い悲しみが訪れたとしても、

そういう瞬間を見逃さない感受性を持っていたい。

 

どんなに先が見えなくても、不安に押しつぶされない

強さを持っていたい。

 

それがしなやかな心であり、

幸せを感じる力なんじゃないかな、と思います。

 

ソフィーの選択
映画では、メリル・ストリープがソフィー役を好演しています。

ただし、あまりに過酷な設定なので、その点は覚悟が必要です。

 

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 10:48 | 書評 | comments(0) | trackbacks(0) |
安井かずみがいた時代 私の人生は誰のもの?

 

安井かずみがいた時代

島崎京子

集英社

1785円

 

安井かずみがいた時代とは、何年頃か。
1939年1月生まれの彼女が作詞家として仕事を開始したのは1960年代。
沢田研二や小柳ルミ子、アグネス・チャンや浅田美代子といった

あの時代の人気歌手にばんばん詞を書いていました。

 

自分でがっつり稼いで豪快に使う。

そんな女性、それまでの日本には
ほとんどいなかったのかもしれません。
加賀まりこさん、コシノジュンコさんとつるんで
夜の六本木を闊歩して、自分で買った外車を自分で運転して、
華やかでパワフルに生きていた人、なのですが、
加藤和彦さんと結婚し、人生を鮮やかに切り替えます。
仕事よりもLIFEを優先する。
「モーレツ社員」がしゃかりきになって働いて、
日本経済を支えていた時代です。
2人の生き方はある意味で、

時代のちょっと先をいっていたのかもしれません。

 

LIFEを優先するといっても、「お庭に洗濯物を干した時、
風が石鹸の香りを運んでくる瞬間が好きなんです」みたいな、
庶民的な生活じゃなくて、メイドさんが仕えているようなLIFEです。
毎日、ディナーは2人ともきちんとよそゆきの服に着替えて、
自宅でとった。
肉じゃがなんてもちろん出てきません。

あくまでお洒落にゴージャスにが、彼らのLIFEのテーマでした。

 

ところが、結婚して16年目の1993年に
安井さんが肺がんを発病。翌年55歳で逝去。
加藤さんは安井さんに病を知り、
仕事を1年間キャンセルして看病します。
ところが、一周忌を待たずして、中丸三千繪さんと再々婚。

当時は、ブーイングもありましたね。

 

この本は、安井さんと関係の深かった人たちへの

インタビューをもとに構成されています。
コシノジュンコさん、ムッシュかまやつさん、
大宅映子さん、玉村豊男夫妻、吉田拓郎さん、

金子國義さん、渡邊美佐さん・・・。

 

たくさんの証言者たちは、
独身だった安井さんと親しかった人、
結婚してから知り合った人、

大きくわけるとそうなります。

 

独身時代の彼女は、本当にカッコいい。
林真理子さんの『野心のすすめ』の世界ですね。
筆一本で、飯倉のキャンティに毎日のように通って、

メルセデスを乗り回す生活を支えていたんですもんね。

 

だけど結婚によってライフスタイルをがらりと変えたので、

付き合う人たちまで変わったようです。

 

とにかくストイックに趣味を追求する2人のライフスタイル。
理想のカップル、ともてはやされてはいましたが、
そんじょそこらの人が真似できるレベルではなく、
私のように、地方でOLしていた人間にも、
「無理してる」ような印象を抱かせてしまうほどでした。

実際はどうだったのでしょうか。

 

それぞれにとっての安井かずみが存在します。
加藤さんに気を使っていた、という人もいれば

気を使わせていた、という人もいます。

 

 気がつけば安井の人生は加藤を中心に回り出していた。

愛して欲しいと願った瞬間、人は自由を手放すのである。

 

どちらが上か下か、というのは恐らくいろんな場面によって
2人は使い分けていたのだと思います。
加藤さんの友人の前では、加藤さんを立てたでしょうし、
安井さんの友人の前では、愛されている女を

演じたのかもしれません。

 

でも、加藤和彦という理想の夫を手放すことを極端に恐れすぎた。

自分が年上で、先に老いていくことも恐怖だった。

どんどん自分を追い込んだのかな、と思います。

 

このなかでは、矢島祥子さんという安井さんの本の編集者、

それから吉田拓郎さんの証言が、ものすごく面白かったです。
2人とも、結婚前も結婚後もご存知です。

理想を貫いた人生の誇り高さと悲しさが伝わってきますね。

 

そういえば以前、加藤さんが

お洒落は「我慢」だとおっしゃっているのを

読んだことがあって、

お洒落でない私は「大変なことだな」と思いましたが、

それはお2人の共通認識だったのかもしれませんね。

 

 

続き

安井かずみがいた時代2 失うことをなぜ恐れてしまうのか 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 14:09 | 書評 | comments(0) | trackbacks(0) |
ブログに「深さ」は必要か?
 昭和という時代に育った人は
「品質は高い方がいいに決まっている」という価値観が
意識せずともあるんじゃないかと思います。
電話だって音楽の再生機器だって、目の前でどんどん進化しました。
いいもののよさってのを享受しながら成長したんですよね。

ところが、今は品質と価格のバランスを強く問う時代。
自分に本当に必要かを問うこともなく
トヨタのクラウンに乗っているような価値観は
ちょっとどうなの?って。

私のパンケーキ問題は、そのように発展し、
食だけでなく、音楽や服、あるいは雑誌の制作現場などでも、
「そこまでお金をかける必要があるの?」って
シビアに問う現状をひしひしと感じているのですが、
今日はブログについて。

イケダハヤトさんというブロガーがいます。
おもにブログを書くことで生計を立てておられるとか。
1日何本も記事を更新しておられて、すごいなと私は思うわけですが、
アンチ・イケダハヤトという方たちをたくさん抱えておられて、
何とも大変そう。

イケハヤさんは、会社に縛られて生きるより、自分のやりたいように
やりましょうよ、という論をブログで展開します。
これだけ聞くと、言動が一致していて、
「それでいいんじゃない?」と思いますが、
時に、バリバリ働く男のプライドを傷つけるような発言をする。
自分の人生を否定されたような気持ちになっちゃう人が多数発生。
怒り狂ったり、「何にも知らない若造が」と鼻で笑う男たちが
アンチとなり、あれやこれや、と。
そこはもう男対男の世界なので、おばさんの踏み込む余地はありません。

で、このアンチのひとたちがよく言うことのひとつに
イケダハヤトは「浅い」というのがあります。
考え方に深みがない。文章に深い洞察力を感じない。
そういうような話です。

正直に書きますよ。
私も、そう感じることはあります。
ぜんぜん、かばってなくてすみません。

でも、思うんですよ。
ブログって、そんなに深くなきゃいけないのかな?

たとえば、私は内田樹さんの本をたくさん読んでいまして、
かつてはブログもよく読んでいました。
でもある時期からまったく読まなくなりました。
長いんですよ。
長い割りには所詮ブログなんですよ。
じっくり考えたいなら彼の著作を読みます。

日経ビジネスオンラインや
ダイヤモンド・オンラインも同じで、
読み応えのある記事が多いことは知っていて、
私もかつては、朝の30分から1時間近くを費やして、
あれこれ読んでいた時期もあるんです。

でも長い文章って、中途半端に時間がかかる。
その記事から、ちょっと何かに興味を持ってしまったら、
つい検索したり、考え込んだりしてしまう。

一時期は、そういう時間も大切だ、と思っている自分もいました。
知的刺激を受けて、興奮している状態だったと思います。
でも、ふと気付いたら「その程度のこと」で自分の思考が
豊かになるわけでもないです。
で、確実に自分の仕事の時間は減るわけで。

だから、私はイケダハヤトさんのブログは
「気軽に読める点」が好きなんですよ。
思考の「浅い」人には向くんだなw って
私のことも一緒に笑ってもらっていいです。
でも私は、ブログは、深さがマストですか?
って気もするんですよ。
少なくとも私は、最近、著者が深い洞察を披露するような記事は
じっくり読んでいる時間がないと感じています。

イケダハヤトさんはたくさんの記事を書いて
PVをあげる努力をしていらっしゃいます。
その努力の方向性はすごく妥当だと思いますし、
他人が「浅い記事ばっかり書きやがって!」という必要はない。
彼は彼の目的のためにそういうスタイルを取っているだけの話。

もしかすると「深い記事」を書くのは苦手なのかもしれません。
でもそうだとしたら、自分の強みに特化した、いいスタイルです。
他人が「浅さ」を理由にあざける必要はないと思うんですよね。

メルマガもそうなんです。
私はいくつかの有料メルマガを取っていますが、
長過ぎる(内容の濃すぎる)ものを取るのは、覚悟が必要です。
つねに読みたいものは山ほどあって、なかでも私は「本」が好き。
長いメルマガは、私にとっては付き合いづらい相手なんです。
深ければいいってもんでもない。

イケダハヤトさんのことほめてるのかけなしているのかって
感じですが、ほめてます。
量産型というスタイルを生み出して、軌道に乗せています。
深く考えて長い文章を書いていたら、
あのスタイルは維持できないし、私も読まなくなるかもしれません。

著作はまだ読んでいないのですが、
もしかすると、そこではさらに深い議論をなさっているのかもしれません。
かもしれません、って読んでから書けよって話ですが、
彼の弱点を言わせてもらうなら、
この人のもっと深い意見を聞きたいな、と読者に思わせて、
彼の著書の購入に積極的に誘導できていない点かもしれません。
私もまだ「本を読みたい」と思わせられてはいないのです。

もちろん誘導されている人が皆無なわけではないと思うので、
そういう人をどんどん増やせられれば、商売安泰じゃないの?
と私は思います。

金かけて作った音楽がエラいのか。
手間ひまかけて作った料理がエラいのか。
ハイブランドの服がエラいのか。
深いブログがエラいのか。
K-POPのダンスとAKBのダンス、
文学作品とケータイ小説、
なんかも同じようなことが言えるのかもしれません。

私は金かけて音楽作るのは、バカだ、なんて思っていません。
料理も服も、もちろんブログもそうです。
ダメってことではなくて、手間や素材の選び方や
思考のプロセスなどの反映としての「品質の高さ」だけを
一方的に評価しなくてもいいんじゃないですかねってことです。


追記;9月3日

「あいこちゃんって、鼻の穴が大きくてかわいいね!」と言われて
うれしいかどうか。
小学生の頃、同じクラスのきみちゃんに言われたのですが、
子どもながらに何とも複雑でした。

この記事、わたしは真面目にイケダハヤトさんを擁護するために
書いたんですけど、全然慰めていない気もしますよね。
(ごめんなさい)

足りない部分もあったので、補足します。
アンチの方の言う「浅い」は、ブログについてではなく、
彼の論理展開について言っているのだと思うんです。
彼のブログを読んでいて「だから何?」と思ったり、
「その点はいいけど、あの点では問題だろーが!」と感じたりする。

先に「ブログの深さ」と書きましたが、これだと単純に文章量のこと
だと思われそうなのですが、そうではなく、
論理の深さも含まれています。

そんなに思考をあちこちに巡らせて、
どんどん深堀りする記事が読みたいのか、と。

瞬発力で勝負している人がいてもいいんじゃないかしら。
この瞬発力って、昭和の女(わたし)には完全に欠けています。
今のような発信方法ができる時代に、瞬発力のなさって
致命的だなと思います。

結局は自分のスタイルを自分で探す、ということに尽きるし、
その点で、イケダハヤトさんのやり方を、私は「すごい!」と思いますし、
ある種の深さは今後備わっていくと期待しています。
基本、聡明な人だと思っています。はい。


posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 12:59 | - | comments(0) | trackbacks(0) |