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ライター今泉愛子のブログです
幸せの探し方
「あなたは、幸せそうでいいね」と言われたとき、
何と答えるのが正解なのでしょうか。

「ありがとう。そうなんだよね」と返した瞬間に、「しまった!」と思うことがあります。
明らかに、相手の期待に答えていない。
こういう場合、「うーん。そうでもないよ。これでもけっこういろいろあるんだよ」と
お茶を濁すくらいが一番いいんじゃないだろうか。

他人の不幸を真剣に願うほどの悪人は、あまりいませんが、
相手が、少しくらいは不幸を抱えていてくれないと、
自分が惨めになっちゃう、という人が多いように感じます。

何を隠そう、私も、何の不満もなさそうな人のことを「嘘っぽい」と感じていた時期があります。
日経WOMANで、ポジティブシンキングを披露している人よりも、
婦人公論で、苦労をいかに乗り越えたかを語る人に親近感を持っていました。
当時の私は、苦労は、人生につきものだと思っていたから。
苦労しないはずがない、という信念があった。
そういう前提のもと、苦労するたびに、歯を食いしばって戦っていた。
その苦労の合間に、ちょこっとだけ訪れる幸せを愛でていました。

そんなふうだから、苦労がなさそうに見える人について、
「繊細さに欠ける」「単に鈍い」
あるいは「人生の深みを知らない」なんて思ってみたり。
幸せそうな人を見ると、「本当はどうなの?」(ちょっとは苦労もあるんでしょ?)と
期待を込めて聞いてしまったり。

だけど今おもうと、当時の私は、幸せになりたいわけじゃなかったんだと
思います。
苦労して歯を食いしばるのが好きだった。
そういう自分が好き。
何も不満がない状態なんて嘘っぽい。あるはずがない。

それではダメなんじゃないかと思い始めたのが、何年か前。
自分は本気で「幸せになりたい」とは思っていないんじゃないか。

そこで、自分にとって幸せとは何かを考えてみました。
たとえば、
「仕事がしたい」
「だけど家事をおろそかにしたくない」
という状態でグルグル回っている状態の人、女性に多いと思うんですね。

男性でも「仕事がつらい」「でも家族を養わないと」という状態で
ただグルグル回っているだけというの。

これだと、幸せをうまく定義できていません。
「幸せかもしれないけど、よくわからない」状態に甘んじているというか。
 
そういう状態で、いま自分が幸せかどうかを考えると、どうしても相対評価になります。
他人と比べて、「あの人より、マシだな」と思うことで、
自分はまあまあ幸せだなと感じて安心する。
でもそれだと、絶えず人と比べる人生です。

本当に幸せになりたいなら、
自分なりの「幸せ」基準を決めること。
それがないから、人と比べることでしか幸せが実感できない。

では、どういうことが、自分の幸せなのか。
これが、案外むつかしい。
幸せってかなり漠然としているのです。

なので、まずは自分が好きなものをはっきりさせるといいですね。
ところが、これもまたあらためて考えると難しい。
自分は何が好きなんだろう?って。

映画が好きだった・・・ような気がする。
そう。昔は好きだった。
最近みてないけど。

そんなことを思い出したら、まずは映画を見る。
1週間に1本でもいいから、レンタルでいいから、見る。
すると「やっぱり映画が好きだなー」って。

でも、いろいろ見ていると、こういうジャンルは好きじゃないとか、
あるいは、この監督が好きとか、「好き」がどんどん深まってきます。

するととりあえず、「映画を観ているときが幸せ」
「特に、●●監督の作品」
というような、「幸せの定義」ができてきます。

こういうのをどんどん増やしていくと、
相対評価ではない、幸せが実感できるようになります。

「仕事がしたい」
「でも家事をおろそかにしたくない」
とぐるぐる回っている状態が続いていても、
とりあえず「映画を観ているときが幸せ」という幸せは確保できますから、
ぐるぐる状態が気にならなくなります。

そんなふうに、少しずつ幸せの定義を増やしていくと、
人の不幸探しをしなくなるんじゃないかしら。
どうでしょうか。
posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 20:56 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |
「流す」技術
じつは、ずっと誠実な人でありたいと思い続けていました。
人に対して、「いい加減なことをしたくない」という想いが強かった。

それはそれで立派な考えではありますが、
一方で、自分の足を引っ張る考えでもあるなと思います。

私は、雑誌で「読者もの」と言われるジャンルを手がけたことがほとんどありませんでした。
雑誌には、一般のひとの体験談や、リアルな暮らしを見せるページがありますが、
あれは、ライターや編集者が一生懸命さがしてきた、「うちの雑誌にぴったりの一般人」です。
読者ものは、どれだけいい「読者」を見つけられるかが勝負どころ。
私は、それよりも原稿を書くこと、そのものに興味があるから、
読者探しに時間や手間をかけることには気乗りしなかったんです。

が、私の「いい加減なことをしたくない」という想いに
足を引っ張られていた部分もあるかなと。
原稿の内容は、取材相手の「書いてほしい」ことにフォーカスするばかりではありません。
こちらが「書きたい」ことと相手の「書いてほしい」こととが一致しないことも多い。
そういうことで、取材相手ともめるのが、私にとっては、ものすごく心理的に負担になるんです。
相手に悪いなと思ってしまう。
相手から「不誠実な人」と思われてしまうことがすごく怖い。

取材、原稿のやり取り、謝礼の支払い、掲載誌の送付など、
その後の業務についても、私自身が相手の機嫌をそこなわずに、
すべてソツなくできるとは限りません。
どこかで不誠実なことが発生するかもしれない。
そういう懸念をもつことが、負担で仕方がない・・・というか、
まあ、なんかめんどくさいなと。

でもこれって、要は「嫌われたくない」ってことです。
嫌われたくない、とはちょっと違うのか。
「いい加減なことをする人」と思われたくないという気持ちが強いんですよね。
 
たまたま会った相手から「いい加減な人」と思われることには、
さほどストレスを感じないのです。
でも、自分の知り合いは、大事にしたい気持ちが強くて、
そこでは「いい加減な人」と思われたくない。
知り合いには、評価されたいってことですね。

でも最近、そこにこだわってたら、前に進めないよ、と思うようになってきました。
この前も、女性自身で、友人たちにあれこれ聞いた結果をまとめた
「おでん」記事を書いたんです。
何人に情報提供してもらったんだろう・・・とにかく大人数の友人、知人に協力をしてもらいました。
どこかできっと不義理をしていると思うんです。
昔の私なら、きっと「反省」ばかりしていたと思う。
でも仕事って、ただ反省して、引き返して「もうやりたくない」と
思っていたら、前に進めないんですよね。

積極的に、いい加減なことをしようと思うわけではありません。
適当にやればいい、と思ったわけではない。
でも、自分が精一杯やった結果として、誤解が生じるのは仕方がないし、
それで、距離を置かれることがあっても、仕方がないなと。

これ、あえて言うなら「流す」技術ですね。
日常の細かいことに、いちいちこだわらない。
どんなことをしていても、誤解というのは生じるし、
それを受け入れる覚悟をしないと・・・え、まだそこ?
って自分でも思うんですけど。
 
また、コメントで「乙女」と言われちゃいそうですが、
本人的には、前に進んでいるつもりなので、
いつかふてぶてしいおばさんになれると思います楽しい
posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 11:07 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |
自我の葛藤に興味がない
村上春樹さんが、いま発売中の「MONKEY」で、
川上未映子さんのインタビューに答えておられます。
かなりの時間をかけて行われたインタビューのようで、
すごく読み応えがあります。

このインタビューのなかで、春樹さんが「自我」について語っています。

春樹さんの小説に嫌悪感をもつ人たちの話を聞くと、
登場人物のナルシシズムを受け入れられない、気持ち悪いというような意見をよく耳にします。
自分の内面について、あれこれ、ウジウジ言っているように思えるんですよね。
私は、そのウジウジ感が好きで読んでしまうのですが、
それが、イヤだ、と思う人の気もちもよくわかります。
合わない人には合わない。

ところが、春樹さん、このインタビューで、
「僕は、いわゆる私小説作家が書いているような、
日常的な自我の葛藤みたいなのを読むのが好きじゃないんです。
自分自身のそう言うことに対しても、あまり深く考えたりしない」

わたし、長年のファンとして、えー! と思ってしまいました。
わたしはこれまでずっと、春樹さんの小説のなかにある、
”自我の葛藤”的なところが好きだったんです。

自分は何者なのか。
人を愛するってどういうことなのか。
そんなことを延々と悩んでいるような主人公たちを
愛していたのです。
ファンとしては、かなり打ちのめされるような話ですよ。

続いて
「何かで腹が立ったり、落ち込んだり、不快な気持ちになったり、
悩んだり、そういうことってもちろん僕自身にもあるんだけど、
それについて考えたりすることに興味がない」

あらまあ!
わたしは、てっきりそれについて考えた結果が小説になっていると思っていました。

ここからは、春樹さんの話題から離れますが、
この「自我」の扱いって、面白いと思います。

私がある人を取材したときに、年齢を聞いて怒られたことがあります。
その女性は、「年齢にこだわらない生き方をしている」とのことでした。
それは、いいんです。
でも「聞かれて怒る」というのは、
ご本人が年齢にこだわってるってことではないかと思いました。

というのは、年齢って、誰にでもある、かなり一般的なことで、
取材で、お名前と、職業や年齢を聞くのは、基本事項の確認程度の意味しかありません。
主婦雑誌の取材だとしたら、結婚しているかどうか、子どもがいるかどうか、なども
聞きますね。
それは何も、個人的な興味で聞いているわけではありません。
属性が知りたいだけ。

こういうときに必要以上にビクビク、あるいはイライラする人は、
「自分」に対して過敏なのだなあということ。
自分が思うほど、他人は、あなたのことを気にしていないんです。

年齢を誌面に出す(つまり読者にとっての)意味は、
どういう人なのか、大体の感じを知りたいということ。

「おでんは、どの具が好きですか?」
「ぎょうざ巻きです!」(今泉愛子 25歳OL)

とあれば、最近の若い人は、ぎょうざ巻きが好物なの? と思うし、

「ぎょうざ巻きです!」(今泉愛子 65歳主婦)

とあれば、え、この人、どこの出身の人だろう。この年齢でぎょうざ巻きが
好きって変わってるなー、と思うかも。

要は、「今泉愛子」に興味がある人はほとんどいなくて、
25歳か65歳かで、そこから想像できる情報に違いがある。
だから必要なのです。

なのに、「年齢」という言葉に、過敏になってしまう。

これは、たとえば、「結婚」や「子ども」に対する問いかけでも同様です。

お子さんは? と聞かれて、
「生まれなかったんじゃないの。別に不妊治療とかもやってないし。
私たちは、欲しくない。子どもはいらないって選択を夫婦でしたの」
と、一気に話してしまう。
聞いた相手は「いや、そこまで知りたかったわけじゃないんだけど」みたいな。
その過剰さの裏にあるのは、やはり、自我の主張なのかしらと思います。

「私は、こうである」ということに、こだわりすぎる。
私は、年齢を気にしない人なの。

私は、子どもはいらないと思っているの。なぜなら・・・。

こんなふうに考えるなんて、やっぱり私は、自分を愛せていないんじゃないかしら。
そもそも私の生い立ちが・・・。

「私って何?」という答えのない問いに振り回されると、
現実の暮らしが回りにくくなります。
ちょっとしたことが気になったり、時に傷ついたり。

だから、春樹さんが、「落ち込んだり、悩んだりすることもあるけど、
それについて考えたりすることに興味がない」と
言い切っているのは、爽快です。
それだよ、それ!

何か不運が襲ったときに、
「私が、こんな不幸な目にあることの意味は何だろう?」
と考えてしまうときがあります。
というのは、一部の思想家は、
「不幸な目にあうことにも意味があるんですよ」と教えるから。

輝かしい未来のためには(あなたの成長のためには)、
不幸も必要なのです。
と教える。

そういうふうに、気持ちに折り合いをつけるやり方も
あるとは思うのですが、
私自身は、もやもやすること自体に意味がないと、思っています。
不幸にも幸福にもさしたる理由はない。

すべては「たまたま」。
なので、そこにこだわりすぎず、目の前のことを処理していくのがいいですね。
立ち止まらずに。

なぜ? どうして?
と立ち止まっても、それで人生がよくなることは、ほとんどないです。
それよりは、トイレ掃除でもして、気持ちを切り替えて、
未来をみつめたほうがいい。

そのためには、自分が一番何をしたいかを考えること。
難しいのだけど、それを考えるしかない。

春樹さんは、小説に人生を賭けているのだと思います。
その「小説」というものを、見つけられたことは、実にうらやましい話。

多くの人は、自分が何をしたいかが見えてこなくて、悶々としてしまう。
ようやく見えてきても、
「あれもダメ」「これもダメ」となってしまう。

でもそこで、自分の自分に対するダメダメ攻撃に負けずに、突き詰めれば何か見つかると思います。
1年、2年、いやもっと長くかかるかもしれないけれど。

その突き詰めて行く過程で、とにかく「ダメダメ攻撃」を交わしつづけることが
むつかしい。
そこが挫折ポイントかも。

「作家になりたい。でも小説なんて書けない」
絶対無理。
でもなにかきっかけがあれば書けるはず。
だいたい村上春樹だって、ちょっと運がよかっただけ。
私に足りないのは運だよ。
ああ、やっぱり無理だ〜。

こういう人がいたとします。
客観的に見れば、
「そもそも、なぜ作家になりたいの?」
「無理でしょ」
とわかりますが、本人はいたって真剣。
自分に必要なのは、きっかけ。運。
努力とか才能とかではない。
そして、自意識がひねくれる一方。

自分にこだわりすぎる人は、
自分の未熟さ、能力のなさを認めることが苦手です。
自分にこだわるってことは、
自分を高みに置きたいということだから。

自分なんて、どんどん変化するものだし、
そこまでこだわるほどのものでもありません。
もっと自分から自由になったほうがいい。
カッコよく言えば、自我を解き放つ。

そうすることで見えてくるものは、たくさんあると思います。

 
posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 09:13 | 書評 | comments(0) | trackbacks(0) |