幸せの探し方
2015.11.23 Monday
「あなたは、幸せそうでいいね」と言われたとき、
何と答えるのが正解なのでしょうか。
「ありがとう。そうなんだよね」と返した瞬間に、「しまった!」と思うことがあります。
明らかに、相手の期待に答えていない。
こういう場合、「うーん。そうでもないよ。これでもけっこういろいろあるんだよ」と
お茶を濁すくらいが一番いいんじゃないだろうか。
他人の不幸を真剣に願うほどの悪人は、あまりいませんが、
相手が、少しくらいは不幸を抱えていてくれないと、
自分が惨めになっちゃう、という人が多いように感じます。
何を隠そう、私も、何の不満もなさそうな人のことを「嘘っぽい」と感じていた時期があります。
日経WOMANで、ポジティブシンキングを披露している人よりも、
婦人公論で、苦労をいかに乗り越えたかを語る人に親近感を持っていました。
何と答えるのが正解なのでしょうか。
「ありがとう。そうなんだよね」と返した瞬間に、「しまった!」と思うことがあります。
明らかに、相手の期待に答えていない。
こういう場合、「うーん。そうでもないよ。これでもけっこういろいろあるんだよ」と
お茶を濁すくらいが一番いいんじゃないだろうか。
他人の不幸を真剣に願うほどの悪人は、あまりいませんが、
相手が、少しくらいは不幸を抱えていてくれないと、
自分が惨めになっちゃう、という人が多いように感じます。
何を隠そう、私も、何の不満もなさそうな人のことを「嘘っぽい」と感じていた時期があります。
日経WOMANで、ポジティブシンキングを披露している人よりも、
婦人公論で、苦労をいかに乗り越えたかを語る人に親近感を持っていました。
当時の私は、苦労は、人生につきものだと思っていたから。
苦労しないはずがない、という信念があった。
そういう前提のもと、苦労するたびに、歯を食いしばって戦っていた。
その苦労の合間に、ちょこっとだけ訪れる幸せを愛でていました。
そんなふうだから、苦労がなさそうに見える人について、
「繊細さに欠ける」「単に鈍い」
あるいは「人生の深みを知らない」なんて思ってみたり。
苦労しないはずがない、という信念があった。
そういう前提のもと、苦労するたびに、歯を食いしばって戦っていた。
その苦労の合間に、ちょこっとだけ訪れる幸せを愛でていました。
そんなふうだから、苦労がなさそうに見える人について、
「繊細さに欠ける」「単に鈍い」
あるいは「人生の深みを知らない」なんて思ってみたり。
幸せそうな人を見ると、「本当はどうなの?」(ちょっとは苦労もあるんでしょ?)と
期待を込めて聞いてしまったり。
だけど今おもうと、当時の私は、幸せになりたいわけじゃなかったんだと
思います。
だけど今おもうと、当時の私は、幸せになりたいわけじゃなかったんだと
思います。
苦労して歯を食いしばるのが好きだった。
そういう自分が好き。
何も不満がない状態なんて嘘っぽい。あるはずがない。
それではダメなんじゃないかと思い始めたのが、何年か前。
自分は本気で「幸せになりたい」とは思っていないんじゃないか。
そこで、自分にとって幸せとは何かを考えてみました。
何も不満がない状態なんて嘘っぽい。あるはずがない。
それではダメなんじゃないかと思い始めたのが、何年か前。
自分は本気で「幸せになりたい」とは思っていないんじゃないか。
そこで、自分にとって幸せとは何かを考えてみました。
たとえば、
「仕事がしたい」
「だけど家事をおろそかにしたくない」
という状態でグルグル回っている状態の人、女性に多いと思うんですね。
男性でも「仕事がつらい」「でも家族を養わないと」という状態で
ただグルグル回っているだけというの。
これだと、幸せをうまく定義できていません。
「仕事がしたい」
「だけど家事をおろそかにしたくない」
という状態でグルグル回っている状態の人、女性に多いと思うんですね。
男性でも「仕事がつらい」「でも家族を養わないと」という状態で
ただグルグル回っているだけというの。
これだと、幸せをうまく定義できていません。
「幸せかもしれないけど、よくわからない」状態に甘んじているというか。
そういう状態で、いま自分が幸せかどうかを考えると、どうしても相対評価になります。
他人と比べて、「あの人より、マシだな」と思うことで、
他人と比べて、「あの人より、マシだな」と思うことで、
自分はまあまあ幸せだなと感じて安心する。
でもそれだと、絶えず人と比べる人生です。
本当に幸せになりたいなら、
自分なりの「幸せ」基準を決めること。
それがないから、人と比べることでしか幸せが実感できない。
では、どういうことが、自分の幸せなのか。
これが、案外むつかしい。
幸せってかなり漠然としているのです。
なので、まずは自分が好きなものをはっきりさせるといいですね。
ところが、これもまたあらためて考えると難しい。
自分は何が好きなんだろう?って。
映画が好きだった・・・ような気がする。
そう。昔は好きだった。
最近みてないけど。
そんなことを思い出したら、まずは映画を見る。
1週間に1本でもいいから、レンタルでいいから、見る。
すると「やっぱり映画が好きだなー」って。
でも、いろいろ見ていると、こういうジャンルは好きじゃないとか、
あるいは、この監督が好きとか、「好き」がどんどん深まってきます。
するととりあえず、「映画を観ているときが幸せ」
「特に、●●監督の作品」
というような、「幸せの定義」ができてきます。
こういうのをどんどん増やしていくと、
相対評価ではない、幸せが実感できるようになります。
「仕事がしたい」
「でも家事をおろそかにしたくない」
とぐるぐる回っている状態が続いていても、
とりあえず「映画を観ているときが幸せ」という幸せは確保できますから、
ぐるぐる状態が気にならなくなります。
そんなふうに、少しずつ幸せの定義を増やしていくと、
人の不幸探しをしなくなるんじゃないかしら。
どうでしょうか。
でもそれだと、絶えず人と比べる人生です。
本当に幸せになりたいなら、
自分なりの「幸せ」基準を決めること。
それがないから、人と比べることでしか幸せが実感できない。
では、どういうことが、自分の幸せなのか。
これが、案外むつかしい。
幸せってかなり漠然としているのです。
なので、まずは自分が好きなものをはっきりさせるといいですね。
ところが、これもまたあらためて考えると難しい。
自分は何が好きなんだろう?って。
映画が好きだった・・・ような気がする。
そう。昔は好きだった。
最近みてないけど。
そんなことを思い出したら、まずは映画を見る。
1週間に1本でもいいから、レンタルでいいから、見る。
すると「やっぱり映画が好きだなー」って。
でも、いろいろ見ていると、こういうジャンルは好きじゃないとか、
あるいは、この監督が好きとか、「好き」がどんどん深まってきます。
するととりあえず、「映画を観ているときが幸せ」
「特に、●●監督の作品」
というような、「幸せの定義」ができてきます。
こういうのをどんどん増やしていくと、
相対評価ではない、幸せが実感できるようになります。
「仕事がしたい」
「でも家事をおろそかにしたくない」
とぐるぐる回っている状態が続いていても、
とりあえず「映画を観ているときが幸せ」という幸せは確保できますから、
ぐるぐる状態が気にならなくなります。
そんなふうに、少しずつ幸せの定義を増やしていくと、
人の不幸探しをしなくなるんじゃないかしら。
どうでしょうか。