Search this site
ライター今泉愛子のブログです
感情を切り離して自分を見る
以前、友人と話をしていた時に、彼女がこう言ったんです。
「私ね、そろそろもっと自由になっていいかなって。
これまでずっと我慢してきたしね。
もっとワガママに生きようと思うの」

たぶん彼女を知る人全員がずっこけると思います。
いやいやいや、十分自由でしょうよ。
これ以上ワガママになるなら縁切るよ。
と言いたいレベル。

だけど、友人の言葉は、友人にとっては真実で、
本人は、ずっと自分は我慢してきたと思っている。
我慢のレベルは人それぞれですからね。

自己認識というのは、なかなか難しくて、
すごく美人なのに、「全然美人じゃない」と思っている人も
たまにいます。
逆もいますよね。

私は、ここで書いている限り、けっこう自分は弱気だと思っていますが、
それもまた、リアルで私を知っている人にとっては、噴飯ものかもしれません。
いや、全然、強いだろうと。

自己認識は、自分で自分をどう見ているかですが、
客観的に自分を見るのとは少し違うと思います。

自己認識は、自分を見たいように見るので、
そこに感情が伴います。
「弱気な私」はかわいそう、だったりするわけです。
「優秀な僕」はなぜ認められないのかとイライラしたり、
「美人な私」ってみんなから注目されてサイコーだったり。

弱気な私を気にしているのは、自分。
もし私が弱気一辺倒だったら、ライター界で生き残っていないでしょう。
それでも、自分を弱気だと思いたい自分がいる。

客観的に自分を見るとそこに、余計な感情がまとわりついてきません。
弱気だろうが優秀だろうが美人だろうが、それは、それ。
ただのスペック。
だから、その先に進める。

自分に入り込みすぎると、自分の作る物語にからめとられてしまいます。
悲劇の物語とは、限りませんが、
英雄の物語であれば、ずっと自分は英雄の物語の主人公であり続けます。
それが時に自分を苦しめる。
時に変化を拒む。

感情を上手に切り離して、自分を見る訓練ができるといいですよね。

 
posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 10:11 | 人生 | comments(2) | trackbacks(0) |
幼い頃の自分に別れを告げる
人生がうまくいかないと悩む人に、
幼い頃の自分を癒してやることが大切だとする考え方があります。

幼い頃の自分が決定的に損なわれていたこと。
理不尽な我慢を強いられ、イヤだというひと言、お腹すいたというひと言すら
言わせてもらえなかったこと。

その頃形成された、自己評価の低さ、自己主張のできなさ、
人の顔色を見るクセ、人と関係を築くことへの怖れ、幸せへの希求の低さ。

幼い頃の記憶を優しく溶かしていくことで、次第に気持ちがほどけていく。


私自身も、ある時期から、子ども時代への不満があれこれ渦巻くようになりました。
自分が子育てを始めてからだったと思います。
息子たちを育てていると、
私などは、かなり育てやすい子どもだったのではないかと気付いたのです。
それなのに、何故あそこまで毎日毎日怒られていたのか。
否定され続けたのか。
と怒りに火がついたのです。

それは、私自身の物語を「悲劇」に決定づけた瞬間だったかもしれません。
じつは私、かわいそうだったんじゃん!と認識してしまった。

たしかに、過去に起因する部分はあります。

引きこもっているのは、幼い頃に理由がある。
自分に自信がないのは、親の育て方に起因する。
恋愛がうまくいかないのは、異性の親との関係に問題があったから。

たぶんそうなんです。
理由はそこにある。

だけど理由を見つけると、そこに安住してしまうから、難しい。
親がこういう育て方をしたから、今の私はこうなんだ。
で終わってしまっては、前に進めない。

理由の「大きさ」は千差万別です。
衣食住のレベルで苦しさを抱えていた人もいれば、
単に感情の問題の場合(私はこちら)もあります。
しかし当人には「大きさ」は関係がない。

その理由を手放さなくてはならないのですが、
安易に手放そうとすると、ものすごい抵抗にあいます。
裏の自分が抵抗するんです。

親の問題はあったけれど、
今の自分には関係がない、とサラリと流せる人もいるかもしれませんが、
裏の自分が頑固でナルちゃんだと、それを許さない。

裏の自分は、今の自分に「つらかったよね?」と何度も確認を求め、
甘やかしてくれる存在です。
裏の自分は、決して忘れてはいけないと言いたいわけです。
どうしたら、彼女と別れを告げられるのか。

つらかったけど、もうそれはいいのよ。
気が済んだ。
そういう状態に持っていくには、ものすごくパワーが必要です。
そのパワーをどこから調達するか。

結局のところ、楽しいことを増やしていくしかありません。
楽しいことの間に落ちている「つらいこと」「不愉快な出来事」に注目しない。
つらいことが起きた時に、「やっぱり私は、自己評価が低いから」なんて風に思わない。
思いそうになったら、ダメダメと自分にブレーキをかける。
今そこを乗り越えようとしているのだ、と自分を励ます。

劇的な解決策を期待しても、そんなものはありません。
いま、自己啓発書は「カタルシス」的な作りが多いです。
脳をはっとさせて喜ばせるような、キーになる言葉をたくさん盛り込む。
原因はこうですよ。
こうすれば解決しますよ!

そんな簡単なものなら、悩んでないですって。
日々コツコツとやっていくしかないのです。
 
posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 06:38 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |
人生は、二択問題ではない。
以前、ある作家さんをインタビューしていた時に、
「でも○○さんは、一旗揚げたからいいじゃないですか」と言ったところ、
「一旗揚げるって、どういうこと?」と不審そうに聞かれました。

彼女が作家としてデビューしたことを、一旗揚げたと表現したわけですが、
「意味がわからない」と言われてしまったんです。
私と今泉さんの違いはそこなの?と。

このブログでも再三、有名人だ、凡人だと言っているのは、
私が何よりそれを気にしているからでしょう。
厳密に言うと、気にしているのは、有名人かどうかではなくて、
一旗揚げたかどうか。

夢中になる仕事を見つけて、その仕事で思い切り勝負して、それなりの成果を挙げる。
私は、それができている人がうらやましくて仕方がありません。

私の価値観というのは、かなり白黒はっきりしていて、
グレーゾーンがほとんどないんです。

好きか嫌い、成功か失敗、天才かバカ。
一旗揚げるかどうかにこだわるのも、価値観が二択式で、グラデーションではないからでしょう。

だから、いつも不満。
まだ私は、成功を手にしていない、と思ってしまう。

私が子どもの受験に夢中になったのは、
きっとそれが「合格/不合格」の二択だったからなのでしょうね。

特別な人でありたい、というエゴ。
どうやったら捨てられるのかなあ。



 
posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 23:16 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |
がんばっても報われないのは、脚本のせいだった
世の中には、がんばっても報われない人がたくさんいます。

起業して、必死で商売するけれど、うまくいかない。
懸命に小説を書くけれど、なかなかデビューできない。
熱心に子どもの世話をし、家事一切を取り仕切って上手に家庭を運営しているのに、
誰からも感謝されない。

「報われない」と感じることは、世の中に山ほどありますが、
「報われない」と感じるかどうかには、個人差があります。

同じように専業主婦であっても、片や「報われない」と感じ、片や「楽しい」と感じる。
その違いってなんだろう?

自分よりはるかに貧乏に見える人が、特に将来を不安に思でもなく、けっこううまくやっていたり、
自分よりはるかにブスな人が、まったく自分を卑下していなくて、明るく楽しそうに生きている。
どうしてなんだろう?

もちろん単純に「性格」ですませてもいいんです。
だけど、それで済ませてしまうと解決しない。

最近うすうす気付いていたことに、
私には、自分を悲劇の主人公にしたがる傾向があります。
かわいそうな私、傷つきやすい私を強調しすぎる。
そっちにすぐ引っ張られてしまう。

最近やっと乗り越えられそうなのですが、
母への積年の恨みをここでも何度か書いてきました。
ずっと解決できなかったのは、
私の不幸体質のせいだと思います。

もちろん昔から仲はしっくりいっていませんでしたが、
母娘問題の本を読めば読むほど、
私の事例は「まだマシ」だということがわかる。
毒母ランキングで言えば、うちの母は圏外でしょう。

母との問題を誰かに語ると、
たいていみんな、面倒くさそうにします。
「いつまで言ってんの?」てなもんです。

親切な人は「わかる〜」と同調してくれますが、
それとて、私には不満なんです。
もっと、私のことかわいそうだと思ってほしい。
それじゃ、足りない。

私はたぶん、私を主人公にした悲劇の物語を完成させて、
それを喜んでくれる観客を探し求めていたのだと思います。
見てくれる人はいる。
だけどだれも私の望むような共感は示してくれない。

私の作った物語を演じられるのは、私だけなんですよね。
脚本をもっていない人は、演じられない。
私は私の作った脚本に酔ってる。
演じているとすごく気持ちいい。

人はみな自分の作った脚本通りに生きている。
その脚本を書き換えることができるのは、自分だけ。

もし、ささいなことでイライラする自分がイヤなら、
脚本を書き換えてみて。
ささいなことにイライラしない、と書く。

不幸体質の人はたいてい、自分が不幸なのは他人に原因があることになっています。
私の場合は、母。
ある人は、運が悪いことになっていたり、
ある人は、他人の無神経さが悪いことになっていたり、
また別の人は、世の中の仕組みが自分に不利なようになっていると思っていたり。

自分はあくまで被害者。
被害者意識というのを、意識できる人は少ないんです。
たいていの人は他人から「それは意識の問題だよ」と言われるとムッとします。
私は「かわいそうな人」であって、
意識なんて、そんな軽い話じゃないから!

私も
「愛ちゃんのお母さん、そんな悪い人じゃないと思うけど」
と言われると、思い切りむっとしていました。
何にもわかってないくせに!
相手は、私の脚本どおりの台詞を語ってくれません。

だけどいい加減、この脚本を捨てた方がいいとわかってきた。
脚本を書き換えることができるのは、わたしだけ。
それが自分にできる唯一の解決方法。

 
posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 09:26 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |
目指すべきは有名人ではなくて、凡人として幸せに生きること
「凡人とは言っても、今泉さんはまだ恵まれているよね」と
お思いかもしれません。
凡人のなかでは、そこそこ順調じゃん?

その負け犬根性がダメなんです。
「あの人は私より恵まれている」という思い込みが負け犬根性。
自分より恵まれているところを探し始めたら、キリがない。
それは単に、自分がなかなか出世しない理由を探しているだけ。

世の中にあまたいる、自分よりも恵まれているように見える人だって、
悩みや問題を抱えていることもあります。
自分が知らないだけです。

そういう想像力をもてるかどうか。
「あの人は私より恵まれている」と思い込んでいると想像力は働きません。
自分よりも恵まれている人の恵まれている部分にだけ注目して
ため息をつくうちに時間が過ぎていきます。

逆に、想像力が行き過ぎている人もいます。
知り合いの不幸探しをしすぎるしょんぼり

あんなにバリバリ働いていたら、子どもがグレるに違いない。
とか
お金なんてたくさんあっても、相続でもめて大変なだけ。
とか
出世したって、役員にペコペコしてるだけ。あれはストレスだよな〜。
とか。

それ、いらんから。
働いていない自分の子どもは大丈夫だと思いたい。
お金のない自分だって不幸ではないと思いたい。
出世しない自分の方がよっぽど自由だと思いたい。

想像力がありすぎたる、こういうのも全部、負け犬根性です。
勝てない言い訳だけは立派。

自分以外の他人が幸せでも不幸でもどうでもいいの。
私が、じつは親の遺産1億円をもっていたとします(まだ生きてます。そんなに金持ちじゃないです)。
でもそれは、あなたの人生に何も関係がない。

いつだったか都心の公務員住宅が豪華だけど低家賃という報道があって
庶民の怒りを焚き付けたことがありました。

でも、自分の人生に何も関係がない。
それで損はしてない。
税金のムダ遣いなどと言い始めたらキリがないです。
そこで怒っても、何の得にもならない。

何の得にもならないイライラを温存してしまうのが、負け犬根性。
凡人でも、凡人として立派に生きている人は、そういうことにイライラしない。

目指すべきは、有名人じゃなくて、凡人として幸せに生きること。
そのためには、まず負け犬根性を改める。
遠くからワンワン吠えない。
ムダに自己主張せず、長いものに巻かれる
(その際、歯ぎしりしてはダメ)。

人生って、ポジショニングが大事です。
学校でのポジショニングが、スクールカーストと呼ばれる時代ですが、
まだ私たちには、凡人カーストで生きていく覚悟が足りない。

凡人として長いものに巻かれた結果、ブラック労働、みたいな問題もありますが、
それはまたの機会に。
 
posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 06:27 | 人生 | comments(2) | trackbacks(0) |
才能がないと気付いた時が勝負の分かれめ
他人の圧倒的な才能を見せつけられた時、
「自分も頑張ろう」と思うか、「ムリ」と思うか。
まあ普通に、ムリって思いますよね。

NARISAWAの成澤由浩さんは、高校時代はサーフィンに夢中で大会などでも上位入賞していたとか。
ところがハワイでプロサーファーたちのプレイを見て、
自分はサーフィンでは、世界で勝負できないと悟り、料理の道へ。

ムリだと思っても、成澤さんのように別の道があればいいのだけども、
別の道は、もっと劣るし・・・。
というのが、凡人であります。
世の中に転がっている成功エピソードは、ほとんどが天才目線。勝てば官軍。
成功した途端、その人がやってきたことが全肯定される。

しかし凡人が、わたしだって幸せになりたい!と思うなら、
自分よりうまい誰かの才能にひるまないことが大切だと思います。

ライターの世界にいると、圧倒的な才能を見せつけられる日々の連続です。
うまい文章なんて、世界中に転がっていますし、世界なんて広い範囲ではなくて、
雑誌を一冊読んでいるだけでも、あ、この人うまいな、なんて思うこともしょっちゅう。
うまいな、と思ってクレジットを見ても、さほど有名な人でもない場合がほとんどで、
ってことは、うまい人なんてゴロゴロいる。

そういうなかでしがみついてやっていくしかありません。
ライターが競争に激しい世界だと言いたいわけではありません。
天才たちの成功物語に惑わされてはダメだと言いたい。

かなわないものを目の前にして、方向転換をはかれるのは、一部の天才にだけ許された行為で、
世の中のほとんど大半の凡人は、かなわない人たちに押しつぶされそうになりながら、
コツコツやっていくしかない。

そのためには
1負けを素直に認める。
負けを認めず、「でも」「だって」「自己プロデュースがうまいだけじゃん」と
やっていてはダメ。

2世の中を愛する。
天才ではないとしても、世の中から見捨てられるわけではありません。
そういう意味で、世間は意外と優しい。
天才でない自分が生きていけることにとりあえずほっと胸をなで下ろす。
ここで「オレ様を認めない世間というのは、ひどい場所だ」と思っていてはダメ。

3才能だけをものさしにしない
才能は、はっきり言って大したことない。
そこで勝負しようなんて、大胆なことは考えないで、とりあえず、
目の前のできることに集中する。
たとえば「締め切りだけは守ろう」とか。

4その際、卑屈にならない。
ここポイント。
自分は才能がないから、締め切りを守ろう。
と覚悟を決められればいいのですが、
それが自己評価を低める方向にいきがち。
どうせオレなんて、締め切りを守るしか能がない。
などとは絶対に思わないこと。

5勝負すべきは自分
締め切りに間に合わせるために、全力で頑張る。
明日への準備を怠らない。
それを続けていると、前よりはちょっとうまくなったかもと思える日がきます。
そういう微差に自分で気付いて自分をほめる。
才能のある人と勝負しようなんて大それたことは考えてはダメ。
前の自分より進歩していればよし。

:::::

凡人で出世する人は、天才の才能につぶされないしたたかさがある。
私が目指すべきは、こちら。
天才ではない世の中の大半のみなさまも、天才の動向に惑わされることなく、こちらを目指しましょう。
道は必ず開けます。
posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 06:52 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |
人を叩く人を、叩く愚か者、それはわたし・・・。
昨日の記事は、人を叩いちゃダメ、と書いて、
人を叩く人を叩くという、
「おまえもな!」って状況に陥っておりました。

これを裏解説するならば、あたしも本当は人を叩きたいってことショック
たしかに、人を叩きたいという感情を懸命に抑えることもあります。
どう考えても理不尽だったりした時に、自分の感情を処理しきれずイライラ。

よく、子どもの虐待について議論する時に、
同じ状況に追いやられれば、誰でも虐待してしまう可能性はある、
という言い方をすることがあります。

可能性はある。
たしかにそうなのですが、大切なのは、虐待せざるをえない状況を、
回避できるかどうか。

孤立した母親(あるいは父親)が相談できる機関を用意するとか、
母親同士が交流できる場を設けるとか、
お役所の立場としてはいろんな策を練りますし、
新聞なども母親を責めたりはせず、
社会がどうのこうのと言いますが、
最終的には、母親自身にかかっています。

えっと、いま私は壮大な言い訳をしようとしています。
人を叩きたくなる気持ちは誰にでもある。
だけど、本当に声に出して言うかどうかが、問題なんですしょんぼり

1イライラする→爆発して人に当たり散らす
2イライラする→ごまかす方法を探す→何とか落ち着く
3イライラする→イライラの原因を突き止める

たとえネット上であっても、大声で人を叩いてしまうのは、1
私のように、必死でこらえているのは、2
(だから1の人を叩いてしまう)

だけどやっぱり3が一番いいと思う。
自分に対してどれくらい深いところまで入っていけるのかが勝負の分かれ目。

自分のイヤなところがどんどん見えてくるのはつらいけれど、
がんばってみる意味はある。
わたしも日々鍛錬を積んでいきたいと思います。
posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 16:46 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |
本当は、オレだって寄付してみんなにほめられたい!
私は、計算高い人を毛嫌いする傾向があります。
底が浅いと思えてしまう。

でもじつは、私は自分の計算高さを必死で隠しているから、
てらいもなく出している人に、イラッとくるだけではないのか。

ネット上には、様々なバッシングがあります。
最近で言うと、みなさん不倫に厳しい。
「いけないことだ」と叩くのは、
恐らく、自分は我慢しているのに、という感情があるから。

「正しさ」にがんじがらめになっていてやりたいことができない。
恋愛したいけれど相手が見つからない。

だけどそこに気付かない。
というよりも、気付きたくないから、過剰に他人を叩いてしまう。

ここでは、不倫の是非を問いたいわけではありません。
他人を叩きたくなる自分の感情について考えたい。

この前、子どもの頃、将来何になりたいと思っていたか、と聞かれたのです。
その時に、子どもの頃の記憶をたどったところ、
私は、幼い頃、ものすごく大人受けを計算する子どもだったことを思い出しました。
将来、何になりたいと思っていたか。
私は、なんと答えれば大人が喜ぶかを考えていました。

とは言え、保母さん、なんていうような、当たり前の答えもしたくない。
幼稚園の頃は「お洋服のデザイナー」って答えていましたね。
小学生になってからは「お花屋さん」

どちらもまあ「好きなもの」ではある。
だけども、それは、保母さんほど陳腐ではないし、
そこそこ女の子っぽいし、だいたいいい感じであるだろうと、
計算を走らせてもいた。

かわいくないですよね。
でも、きっとその計算高さで、私は生き延びてきたのだと思います。
幼い頃の私の人生が、その計算高さを必要としていた。
たぶんものすごく切実に。

そう考えると、ちょっと不憫な感じもしますが、
ここで、私ってかわいそう、と自己憐憫に陥ってはダメ。
私は、かわいそうではない。
というよりも、なんて頼もしい子どもだったのでしょうか。
そんな計算ができるなんて、頭がいいじゃないですか。
よくぞ、がんばった。

そう思えれば、私は今ほど、計算高い人を毛嫌いしなくなると思います。

震災で、寄付をする有名人に、売名行為だなどと言い出す人がいます。
黙ってやれって?

そんなの、自分ができないことをあっさりとやってしまう人間を
許せないだけですよね。
本当は自分だって、いいことをして周りをあっと言わせたい。

違う!
相手が間違っているんだ!

そういうことにしておいてもいいのです。
日本人なら黙って奥ゆかしくやれよって?
それもまた、自分は奥ゆかしく生きることを強いられている、
という感情があるからでしょう。

自分の心にある本当の叫びを知らないと、
一生、人を叩く人生です。
それでいいの?
 
posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 07:03 | 人生 | comments(4) | trackbacks(0) |
毎日コツコツと
今週は必死で原稿を書き続けていました。
出版界には、GW進行というのがありまして、
例年この時期は、スケジュールが押します。
GWに休むために、早めにがんばるわけですから、
嫌いではありませんが、
ずっと張りつめて、ブログに原稿にと頑張っていたら、
何とかすべて書き上げた今日、力尽きてしまいました。
もう日付が変わってしまう〜ということで慌てて更新する次第。

中学生だった頃(つまりランナーだった頃)、
いろんな人がいろんなアドバイスをくれたのですが、
一番印象に残って実践していたのが、
「何でもいいから、毎日続けなさい」です。

すごくシンプルなアドバイスでしたが、
なぜか心にすとんと入ってきて、さて何をしようかと考えました。
当時、中学生だったので、さして高度なことを思いつきません。

始めたのは、腹筋。
床に寝ころんで、手を頭の後ろで組み、起き上がる。
それを30回やることにしました。

私が中学生だった頃は、今のようにスポーツは科学的ではありませんでした。
だけども、毎日腹筋を30回やったからと言って、
競技の足しになるようなものではない・・・くらいはわかったと思います。

でも、当時の私はかなり田舎の純朴な少女だったので、
素直に「やってみよう」と思ったのです。
腹筋30回って、簡単そうに思えますが、
部活で疲れて帰ってきて、ご飯を食べてお風呂に入って宿題したら、
あとは寝るだけ、みたいな生活でしたから、
忘れそうになることも多い。

布団に入って、はっ!と思い出すこともしばしば。
思い出した瞬間に、寝たフリをしそうになる。
「いや、あたしはもう寝た。寝ちゃってる。夢のなかで思い出しただけ」
と自分に言い聞かせて、そのまま寝ようと試みる。

だけど、もうひとりの純朴な田舎少女の私は、
「それはあかん」と訴えかけるわけです。

もう、しゃーないなあ、と言いながらベッドを出て、
せっせと腹筋を30回。

あの経験はすごくよかったと思います。
腹筋を30回くらいで、腹筋は強くなりませんが、
自分が決めたことをやり通すことで、
心が強くなります。
芯ができるというのかな。
気持ちがぶれにくくなる。

そんなわけで、あ〜!
今日が終わる、やばい。
とぎりぎりセーフの更新です。
明日はちゃんと朝から復活したいと思っています。
 
posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 23:57 | 人生 | comments(2) | trackbacks(0) |
「ちょっと運がなかっただけ」で人生を終わらせていいのか
「あの人、セルフプロデュースがうまいだけよね」って、言いたがる人、たまにいます。
セルフプロデュースがうまいだけ。
つまり、才能はそれほどでもないと言いたい。

セルフプロデュースも才能のうちで、そのことにも気付いてはいるけれどスルー。

人生で一番怖いのは、自分に才能がないと自覚することだと思う。

歌が好き。
だけど、
歌手になるほどうまくない。
芸能界でやっていくなんてムリ。
歌以外のこともやるなんてイヤ。

自分の不安や自分の能力のなさをしっかりと見つめることを、
凡人ほど避けて生きています。
「頑張れば何とかなるかもしれないけど、頑張れないの。
あたし、根性ないし!」
ってことにしておきたい。

なぜか人は、
欠けているのは根性であったり運であったりして、
才能ではないと思いたがる。
自分の才能のなさと対峙できない。

でもね、
ピカソが一度も自分の才能のなさを呪ったことがなかったと思いますか。
村上春樹が毎日自分の才能にうっとりしながら机に向かっていると思いますか。

ピカソは、ピカソなりに自分の限界を自覚していたと思います。
自覚しながら、今の自分の才能のなかでどれだけやれるかに挑んでいた。
才能の壁にぶつかるたびにもがいた。
だからこそ、頑張れたのだと思います。

ピカソが才能ない、なんてそんなことないでしょーって。
もちろん才能はありますよ。
私とどっちが上手に絵を描くかといったら、そりゃピカソでしょう。

だけどピカソは、ピカソなりに自分の才能のなさと格闘したと思います。
どうやったらもっと自分が描きたいように描けるようになるかと考え続けていた。
他人との比較ではなくて、純粋に自分の才能と向き合い続け、もがき続けたのではないかと思います。

凡人に限って、自分の才能を試そうとしません。
土俵に立とうとすらせず、
わたしなんて、とてもとても、と遠慮してしまう。

もちろんそれもいいんですが、
だったら、他人の才能を呪ってちゃダメ。

「才能」には、ものすごく細かい段階があります。
レベル1からレベル100なんてものじゃなくてレベル10000くらいある。

だけども、わりとそこまで細かい認識をせず、
あるかないかで考えがち。
村上春樹は才能があってうらやましいなあ。
あたしは、あそこまでないもんなあ。
って、当たり前じゃん!

そこでやっぱムリかも、と思う必要はなくて、
ないならないなりに、どれくらい欠けているのか、何が欠けているのか、
じっくり考えるしかありません。
それは、諦めるのとは違う。

わたしは、ずっと「もうちょっと才能があれば、こうできたのに」って
考えている人でした。
才能だけに限らず、
「実家が近ければ、子どもたちを預けて、もっとバリバリ働けたのに」と思っていた時期もあったし、
「ライターになるなら、そもそも大学卒業して出版社を目指せばよかったんじゃないの?」
と思った時期もありました。

そうやって、かなわない夢を温存してきた。
夢がかないそうにないことを言い訳しながらもがく一方で、
かなわない夢の甘さにひたってもいたのです。

才能がないならないなりに、何とかするしかないの。
だけどずっと、その程度の覚悟すらしないまま生きてきてしまった。
とりあえず現世で気付いてよかった。
なんとか間に合ったかな。

 
posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 06:36 | 人生 | comments(1) | trackbacks(0) |