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ライター今泉愛子のブログです
ゆく年くる年
人は誰しも闇をもっています。
わたしの闇は、ピンと張りつめた透明な闇。
冬の朝の夜明け前。
誰の侵入も許さない、静かに佇む闇。

今年は、光と闇を知りました。
ずっと抱えていたわたしの闇。
誰ともわかりあえなくていい。
わかりあいたくない。
孤独と厳しさ、そして拒絶。


こうしてブログを書くのは、わたしの光がそうさせるのだと思います。
それでもなんとかわかりあいたい。

人の闇も知りました。
ドロドロとした闇。深海のような闇。漆黒のような闇。
他人を吸い寄せる闇。
あらゆるものが混じり合う混沌とした闇。

それぞれのもつ闇をわかろうとする必要なんてないし、共感する必要もない。

闇は誰もが持つもので、ただそこにあるもの。

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 07:59 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |
自覚がないからイヤミになる

今年は、例年になくたくさんの忘年会がありました。

もともと人が大勢、集まるところが好きではありません。

どう振る舞っていいかがわからない、居心地の悪さが苦手なんです。

と言いつつ、参加したらしたで案外、楽しくやってますから、

自覚というのがどれほど正しいのかよくわかりませんね。

 

女性編集者との忘年会では、オリエンタル占星術を教えてもらいました。

生年月日を元に宿星というのが出るんです。

 

私は「張宿」。

これはスター性があるとか、華があるとか、運がいいとか、出てくるんですが、

こういう資質を、私は占いで言われる前から持っているかもしれないと思ってたんです。

だけど、最終的には全否定していました。

そんなことを自覚するのは、よくないと思ってたから。

 

私なんて、とりたてて美人でもないし、頭がいいわけでもないし、多少愛想がいいだけで人気者ではないし、

運がいいって、私だって努力してるもん、と。

謙虚志向が強すぎて、「私なんて」と卑下してばかりいたんです。

私に華なんてあるはずがない、と。

 

だけど、ふとそこがイヤミなのかもしれない、と思いました。

それは愛ちゃんだからできることで、普通の人はできませんって。

と、思われている可能性を考えないようにして、せっせと生きていたんですショック

 

自分が多少ウザいタイプだという自覚はあったんですけど、

私だって恵まれているわけではありませんよ。大したことないですよ。

私ができることなんだから、みんなもできますよ、と思っていた。

それはちょっと違うのかもしれません。

 

わたしのやり方はわたしだからできること。

もっと丁寧に、人との共通点を探っていかなくては、と思いました。

これは大きな発見です。

年末に気づいてよかった楽しい

 

今日は、明石で今年最後の忘年会です。

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 07:38 | 人生 | comments(2) | trackbacks(0) |
成功が不安に変わる時

わたしは、有名人として生きることに失敗したな、とたまに思うことがあります。

中学、高校時代ですかね。

それを今も引きずっているところがあります。

 

「有名人」であることは、いけないことのように思っていて、

わたしの知らない人が、わたしのことを知っている状況に、ずっと馴染めませんでした。

 

日曜日に三宮に出かけて翌日学校に行くと、「三宮に行ってたでしょ」と言われたりするわけです。

電話で「付き合ってください」と言われて、「わたし、部活が忙しくて時間がないの」と断ると、

翌日「石原愛子は、陸上にしか興味がないらしい」と、男子に茶化されたりとか。

 

どういう顔をして生きていればいいのか、素直に戸惑っていました。

目立つことをすると「イキってる」と言われてしまうし、

「恵まれてる」「ずるい」的な指摘は、よくされましたが、自分としては何がずるいのかがよくわからない。

もっと堂々とすればよかった気もしますし、さらにもっというと、何も気にしなければよかったです。

 

わたしの心のどこかに、弱さがあるんですよね。

いけいけどんどんの強さがあるのに、ふと自分はひとりぼっちなのでは? と寂しくなる。

 

わたしには「自分は目立ちすぎているのではないか」という不安回路があるんです。

そんなことだと好きな男子から嫌われる、とか、女友達から距離を置かれる、とつい思ってしまう。

だから自虐ネタが好きだし、わたしの「できない部分」「ダメな部分」に気づいて欲しいと思いがち。

「すごい!」と引かれるより、「本当におまえはダメだなあ」と優しくしてほしい。

ちょっと甘いというか、弱いというか、ナルシストというか。

 

人それぞれ「不安回路」をもっています。

他人の目が気になります。

わたしの場合は「成功を維持する」ことが難しい不安回路です。

チャレンジャーであるときは、めちゃくちゃ強いのに。

 

「成功を妬まれる」という状況をつらいと思いがちなのですが、

それ自体が自分の思い込みで、自分が思うほど、誰も妬んでなんかいません。

「ちっ」と一瞬思ったとしても、そんなの一瞬の話で、その人はまったく別の人生を生きています。

成功を祝福してもらえなくてもそんなのどうでもいい話で、わたしが自分で自分を祝福すればいい。

そういう弱さを克服していかないと、前に進めません。

 

何度も書きますが、全国優勝した時に、母にがっかりされたことにいまだに傷ついていて、

成功した瞬間、他人は手のひらを返すんだ、と学んでしまったんでしょうか。

 

だけどその不安回路を手放さないのは、わたしの意志です。

力の限り思い切りやりたい、やりきりたい想いと、「ほどほどにしとけ」という想いがしのぎを削る。

 

成功してもなおアクセルを踏み続ける強さは、どうすれば身につくのでしょうか。

でもそれはおそらく、課題として背負うことではない。

ただ無心に、走り続けよう。

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 07:31 | ランナー時代 | comments(0) | trackbacks(0) |
働く人の処世術 勤勉であれ、愚直であれ

昨夜は、来生たかおさんのコンサートに行って来ました。

昔から好きだったわけではなく、

YouTubeでたまたま「はぐれそうな天使」を見つけて聴いた途端、もう虜。

シングルリピート状態で聴き込んでしまいました。

 

来生さんは67歳になられたとか。

私の15歳上ですが、こんなふうに仕事ができたら最高だと思いました。

 

私は、今のところ100歳まで生きるつもりで、75歳くらいまでは仕事をするつもりです。

というか、一生でもいい。

 

会社員や教員の友人たちの中には、定年を指折り数えて待っている人も結構いて、

それはやはり宮仕え、会社仕えの厳しさゆえかと思います。

私もフリーランスとしての厳しさ、悲哀を感じることはままありますが、

とはいえ、働くことが好きなんですよね。

 

きっと石原家の家訓は「勤勉」だと思います。

母も妹も弟のお嫁さんもみんな働き者です。

もちろん父も弟も。

ちなみにうちの夫も(石原家の人じゃないですけど)。

 

女性の中には「働かなくていい」ことを誇りにする人もいますが、

こんな楽しいことをしないでどうする?と私は思っていますし、

トータルで考えて、仕事ほど裏切らないものはないです。

 

いや、現実にはしょっちゅう裏切られていますよ。

頑張っても報われない想いを度々味わっていますし、

期待通りに進まないこともままあります。

自分の能力の低さに絶望することもありました。

 

正当に評価されていないと感じることもあれば、

意地悪されることだってあります。

 

だけど、それでも、やっぱり働くことは楽しい。

働くことって、人生に必要な一生懸命さを一番うまく引き出してくれると思う。

それは、ある種の愚直さです。

 

わたしは、こんなふうにああでもない、こうでもないと書き続けるめんどくさい女なのですが、

仕事って、そういう理念とか、思想とか、あるべき姿とか、輝いているわたしとか、

そういうこととまるっきりかけ離れたところに、本質があると思っています。

 

自己実現とかやりがいとかどうでもええねん。

目の前の作業に集中する。

しがらみなんかスルーしたらええねん。

目の前の作業に集中しよう。

その清らかさが、わたしたちの人生を支えてくれる。

 

出世しなくてもOK。

大金を稼げなくても問題ない。

 

だけど、働き続けるためには、賢さも必要で、

それは、ブラック労働を避けたり、職場いじめの標的になることを避けたり、

あるいは正当な評価を求めることであったり、先を見通す力であったりします。

 

先を見通す力は、来生たかおさんが今もコンサート活動をなさっている姿にも通じます。

彼は本当に、生で聴くと素晴らしい。

67歳であれだけの曲数をこなせるということは、

それなりに体調を管理されていると思います。

たまたま、偶然、天性の才能に恵まれた人が成し遂げていることではない。

 

有名なヒット曲「セカンド・ラブ」は、もとは大橋純子さんに書いた曲だったとか。

「シルエット・ロマンス」がヒットして、そのあとにまた依頼が来るだろうと先に書いたら、

依頼はなかった。

その後、中森明菜さんサイドから「曲を」と求められて提示したら、大ヒット!
災い転じて福ですよね。

 

「CDが売れない!」とぼやいたって仕方がないんです。

自分ができることをコツコツやるしかありません。

そのコツコツが愚直さ。

 

わたしは、お先真っ暗感漂う「出版界」でフリーランスとして仕事をしていて、

このままダラダラと仕事をしていたら、年収が下降線を描いていくことはわかっています。

わたしみたいな、ネームバリューのないライターはそうです。

年をとることは不利に働く。

 

としたら、どうすればいいか。

新しい仕事を増やしていくべきですよね。

今年は、いくつか新しい仕事が始まりました。

 

わたしの場合がっつり営業に出るわけではないのですが、

いつも動いているから、新しい出会いがあるんじゃないかと思っています。

パーティにはほとんど顔を出しませんが、こうしてブログを書いたり、Twitterで発信したりがそうです。

あとは、好きだと思う人とは年上の人とも年下の人とも、仕事と関係ある人ともない人とも仲良くしています。

 

そういうところから何かが繋がっていく。

でもその根底にあるのは、与えられた仕事を黙々とこなす愚直さ。

 

あらゆる仕事は、どこかで何かが引っかかる。

すべてが順調にいく仕事なんてありません。

でもそこにこだわらない。

またか、と思いながら流して、目の前のことを淡々とこなす。

 

「わたしらしさ」なんて大して必要ないんです。

誰からも褒めてもらえなくて結構。

今日1日を無事に終えられたら、それで十分。

そういう日常がたまらなく愛しい。

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 07:46 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |
毎日続く、フィジカルトレーニング

わたしが現役だった頃は、「補強運動」と呼んでいたのですが、最近はフィジカルトレーニングと呼ぶんでしょうか。

名称はよくわからないのですが、わたしもトレーナーの泰子ちゃんにメニューを作ってもらって、

毎日せっせとフィジカルに鍛えています。

とりあえず、ほぼ毎日続いています。

 

続けるコツ。

思うにそれは、やる時間を決めないことだと思います。

一般的には、時間を決めて1日の流れに組み込むことが有効と言われていますが、

わたしは決めていませんし、だから続いている気がする。

 

というのは、その時間にどうしてもできないことがあります。

時間を決めてしまうと、そういう時のリカバリーが難しい。

朝起きてすぐやると決めていたのに、寝坊してできなかった。

としたら帰宅後やるしかないのですが、それは「例外」になります。

その例外処理がなんとなくストレスなんです。

「やらされてる感」が出てくる。

 

それよりもいつやるかを、その日の流れの中でゆるっと自分で決めた方が気持ちがラクです。

わたしの場合は、自宅で仕事をしていることが大きいことは大きいのですが、

今日は仕上げなくてはならない原稿があるから、先にやっちゃおう、とか、

夜に、あれ? 今日まだやってないよ、と気づいたりとか、

そういう「自分でやってる感」があると、気持ちよく続くんです。

 

「毎日やる」と固く心に決めないことも大事です。

それは万が一、忘れた時のリカバリーがラクだから。

わたしは、いつから始めたんだろう、、、確か全日本マスターズ終了後なのでまだ2ヶ月経過していませんが、

その間で、忘れたのが1回あります。

翌日に気づいて呆然としましたが、あまり自分を追い詰めていないので、自分を責める方向にはいかないですし、

「せっかく毎日続いていたのに」という落ち込みもありませんでした。

「ちっ」と一瞬思っただけ。

 

ストイックに毎日やろうと心に決めてしまうと、忘れた自分が許せません。

仮に、2日続けて忘れてしまったら、もう敗北感でいっぱいになって、

「やっぱり自分には無理」と思うようになってしまいます。

すると、せっかくのプランが中断してしまう。

忘れても、「ちっ」と流せる方がすぐに再開できます。

だからトータルとしては長続きするんです。

 

わたしは、自分に厳しくするのが大好きで、ストイックにやりたいタイプですが、

自分でやる補強運動(あるいはストレッチなど)は、

これくらいの緩やかさが長続きのコツではないかと、思います。

まだ2ヶ月続いていない分際で何をいうか、という感じですがショック

 

ちなみに今、鍛えているのは、腹斜筋、腸腰筋、臀筋などです。

肩甲骨周りを柔らかくする運動もしています。

 

わたしは、打越忠夫&吉田香織さんのwingle門下生であり、

ってことは「タバタリアン」でもあるのですが、

タバタは運動能力の低いわたしにはかなり厳しい(タバタリアンの皆さん、ごめんなさい)。

というわけで、自宅でせっせと鍛えております楽しい

 

 

 

 

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 04:49 | ランニング | comments(5) | trackbacks(0) |
トレーニング日記  我慢は誰のため?

ラン友さんたちとの練習が、本当に楽しくて充実しています。

19日(火)は、Nさんとともにインターバル1000m3本。

3’59、3’58、3’50

でした。

 

22日(金)は、Iさんとともにペース走2000m2本

1本目は、4’00、3’53

2本目は、3’59、3’55

 

2本目はかなりきつかったですが、Iさんに声をかけてもらいながら懸命について行きました。

 

 

もうちょっとやれば、5km20分切りできるかな?

 

ところでこの日の後半、胸がすごく痛くなりました。

脇腹痛ではなくて、胸郭の下のあたり。

 

脇腹痛は肝臓ですよね。だいたい位置的には。

この日の痛みは、たぶん横隔膜。

あの激しい呼吸で後半1kmを乗り切ったため疲れたのではないでしょうか。

 

今もまだ胸に筋肉痛が残っています。

しかし横隔膜なんてのは触れないし、こういう筋肉が張るんだ!というのは結構、発見ですね。

 

最近、からだがどんどん走ることに最適化している気がします。

体重はまた減ってしまいました。

ちょっと病的かも、と不安になる程ですが、不健康な感じはしないし、食欲はあるし、

からだも私の目標を支えようとしてくれているのかも。

 

今年の4月5月とからだが絶不調だった時に、お酒をやめました。

以降まったく飲んでいません。

 

でもその態度は「楽しむ」派の方たちをシラけさせることもあります。

ラン友さんたちとの飲み会なんかでは特に。

ビールのために走る、全然いいと思うんです。

それが楽しいというのもよくわかる。

 

だけど私はお酒をやめることになんの抵抗もないし、その方がからだがラクだとしたら、

喜んでそうします。

別に「我慢」でもなんでもない。

 

この「我慢」でもなんでもなくて、喜んで自分からそうしている、という心境を

今ひとつ理解してもらえないことが多いんですね。

 

厳しい練習は辛い。

生活を節制するのはイヤ。

もっと楽しくやろうよ。

だって趣味でしょ。

 

そうなんです。わかります。

でも私は厳しい練習が楽しいし、生活を整えることが好き。

それがからだと心を健康に保ってくれる。

充実感が得られるんです。

 

というわけで、来週は昼間に織田フィールドでひとりトラック練習をするつもりです。

 

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 07:07 | ランニング | comments(2) | trackbacks(0) |
自分が変わり始めるとき

中学時代、私のトレーニング内容はとても貧弱なものでした。

直線80mのコースがあるだけだったので、ひたすらそこを往復していました。

あれは、インターバルと呼べなくもなかったですが、でも80mでは負荷なんて知れていますしょんぼり

それでも速く走れるようになった。

 

トレーニング効果というのを考えた場合、

私はそこに自分の意思がどれくらい入り込んでいるかが重要だと思っています。

監督から指示されて、仲間たちとやる1000m×5本と、

一人きりでやる1000m×5本とは、効果が違う気がするんです。

 

私は、練習メニューを与えてくれる指導者がいない、ただの田舎の中学生だったのですが、

自分でせっせせっせと走っていました。

「サボる」という言葉が存在しない。

私が走らなくても誰も困らないし、誰も叱ったりしないし、というかむしろ真面目に練習していると、

浮いてしまうような環境でしたが、黙々と走っていました。

だって、速く走れるようになりたかったから。

日本一にどうしてもなりたかったから。

目標を持った途端、人生が変わったんですよね。

 

あの頃は、友達の家に遊びに行く時も走って行きましたし、母と西友に買い物に行く時も母は車、私は走って行きました。

とにかく楽しそうにいつも走っていたんです。

ただの変人というか、ただのバカなんですが、ほっといても自分からどんどん練習して、

それも「練習」だという意識も全くないままとにかくずっと走っていました。

 

腹筋運動なども「やるといいよ」と聞くと素直に毎日やっていました。

誰かからの指示でもないし、どれくらいやればいいのかもよくわからないまま続けました。

 

もちろん、指導者がいればそれに従うでしょうし、仲間がいれば一緒に練習するでしょう。

でも、自分のためにやっている、とどれくらい思えるかが、トレーニング効果を左右すると思います。

自分のために努力できるのは、目標を持っているからです。

それが自分を方向づけてくれる。

 

自分のためにやっていると、走っている間に、どんどん次の課題が見えてきます。

自分に足りないもの、改善した方がいい部分、これから目指すべき方向性。

からだが教えてくれるんですよね。

だからどんどんいい方へ向かっていける。

順調な時はね楽しい

 

私は高校に入って、全面的に自分を先生に預けてしまいました。

初めて指導者につく、ということで期待も大きかったんですよね。

からだは何も教えてくれなくなりました。

というより、からだがいうことを聞かなくなりました。

 

最近は、またいい感じで走れています。

走っている最中に「このペースをからだに覚えさせないとダメだな」とか、

「カーブを出るときに体をうまく使えたら、ラスト100mで切り替えができるようになるな」とか、

「骨盤を傾けると、スピードが無理なく上げられな」とか、

色々思い浮かぶんです。

 

走ることが楽しくて、走ることに夢中で、そして何より速く走れるようになりたい、と

心から願っているからだと思います。

 

自分が何を望んでいるか。

そこが一番大切で、おそらくほとんどの人が、自分が何を望んでいるかがわからない。

高い目標を胸に秘めるのは、怖い。恥ずかしい。

時に高い目標は、叶わないかもしれないという不安にかき消されてしまいます。

 

私は40代の頃、かなりもがいていました。

暗黒の40代といってもいいかも。

動いてはいたけれど、グルグルグルグル同じところを回り続けていた。

ライターとして、抜群の才能がない。

としたら、どうすれば? というところでもがいていた。

だけど「変わりたい」とだけはずっと思い続けていました。

そして最近ようやく、あれは助走だったな、と思えるようになりました。

 

目標って何も具体的である必要はないし、高くなくていい。

日本一だとかベストセラーだとか年収一千万だとかそういうのでなくていい。

だけど、何かを目指すこと。こうありたいと願うこと。

それすらできない時期もありますよね。

でももがいていれば、後できっと「助走だったな」と思える日が来ます。

目標を持とうとする意思の力から、何かは動き始める。

 

 

 

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 06:53 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |
好きの探しかたーー可能性にすがらない

走ることが、やっぱり好きですね。

走っているとウキウキしますし、走っていない時も、走ることを考えるとウキウキします。

この「好き」にたどり着くまで、紆余曲折がありました。

 

そもそもわたしは大学卒業時に、きっぱり走ることと縁を切りました。

容赦なく。

自分は競技のない世界で生きていこうと思ったのです。

 

普通に楽しく生きていました。

その「楽しく」の内容は、

料理教室に通ったり、興味のあるイベントに足を運んだり(阿佐ヶ谷のloft Aにもよく行きました)、

美術館に行ったり、映画を見たり、英会話を習ったり、妖精研究に精を出したり、おいしいレストランを食べ歩いたり、でした。

ベリーダンスや太極拳もやりました。

どれも楽しかった。

 

でもちょっとさまよっている感がありました。

「暇つぶし」の域を出なかったのです。

日々を楽しく過ごしたい、という欲望に答えるために、あれこれやりたいことを探していた感じ。

 

悪いことではないのです。それでも十分楽しかったし、友達も増えました。

だけど、なんとなく物足りなさがありました。

もっとのめり込みたい。

 

競技から離れて以来ずっと、わたしは「あれもこれも」人生だったんです。

楽しいことは全部やってみたい。

気になるイベントには足を運びたいし、世間で評判の絵画展を見逃したくない。

 

そんな時に『松平家のおかたづけ』という本をお手伝いしました。

この本を書いていて、ものの整理整頓は、心の整理整頓と繋がっていることを強く感じました。

 

ものが捨てられないのは執着があるから。

としたら、自分は何に執着しているのかを考える。

いろいろ見えてくるんですよね。

 

わたしの場合は、たいてい「思い出」でした。

その本を読んだ時の心の動き、その服を買った時のシチュエーション、

プレゼントされた時の幸せな気持ち。

そういう思い出を大切にしたい性分なんです。

 

人によっては「もったいない」という気持ちだったりもするでしょう。

何に執着しているかといえば、お金だったり、

親から受け継いできた「もったいない精神」だったり、

未来への可能性だったり、捨てて後悔したくないという意地だったり。

 

未来への可能性というのは、何かに使えるのでは? という期待。

捨てられないのは物というより「期待」なんです。

 

そういう期待を、ムダなものというつもりはありません。

あってもいいんです。というかまあ、人間にありがちな心理です。

なんだけど、わたしは単純に、それを捨てると気持ちいいだろうなと思いました。

 

ベリーダンス関係の衣装もたくさん溜まっていたのですが、思い切って処分しました。

もう踊らなくなって長いのに、それでも「またやりたくなるかもしれない」という気持ちが捨てられなくて、

ずっとタンスにしまってあったんです。

楽しい思い出もいっぱいありました。

 

でもふと「もうやらないよ」と思ったんです。

踊ることは楽しいけれど、なかなかうまくならないからストレスも多い。

うまくならなくても、何か心に引っかかるものがあれば続けていいのです。

上手じゃないけど、楽しいと思えればいい。

 

だけどわたしは、そこまで夢中になれない。

縁がないってことなんですよね。

それなのに、きっぱり断ち切れない。

いつか上手に踊れるようになるかも。

何かきっかけがあれば、もっと楽しくなるかもと期待する。

可能性にすがってしまうんです。

 

でもそんな日は来ない。

それできっぱりものを処分しました。

その頃から、生活がシンプルになりました。

 

それまでは、楽しいイベントを見逃したくなくて、いつもあれこれチェックしていましたし、

展覧会の案内やコンサートの予告チラシなどもとってありました。

だけど、すぐに捨てられるようになった。

行く可能性がないとその場で判断できるようになったんです。

 

可能性はいつだってどんなことにだってあります。

あると思えばあるんです。

 

東大に入学できる可能性はゼロではありませんし、

冷たい彼が自分に振り向いてくれる可能性もゼロじゃない。

いつかヤセてまたこのスカートがはけるようになる可能性もあるし、

いつかベリーダンスが飛躍的にうまくなる可能性だってないわけじゃない。

友人の展覧会に足を運ぶ可能性を捨てることは、友人に冷たくすることとイコールじゃない。

 

そこをうまく切り離せられるかどうか。

そんな可能性にすがるより現実を見ることができるか。

可能性にすがってしまうのは、現実から逃げているからだと思います。

 

そういう心の整理整頓があって、ランニングと再会できました。

走り始めた時に「これだ!」と思えたのです。

「あれもこれも」から抜け出せた。

 

そうなると止まりません楽しい

夢中になっています。

 

最近は若い人たちもよく「好き」が見つからないと言っています。

わたしもそうだったんです。

わたしの「好き」ってなんだろう?と真剣に悩んでいました。

だから、あらゆることに手を出した。

ライターとしてもなかなか専門分野が見つからなくて右往左往していましたよね。

 

でもまずは、心から「可能性」という名の期待を追い出してみる。

すると、何かがポンと飛び込んできます。

迷いなく「好き」をキャッチできるんです。

 

あれもこれもと可能性にすがってばかりだと、「ポン」と何かが飛び込む隙がない。

あれもこれもと欲張って手放せずにいる「可能性」の中には、本当の可能性はないってことです。

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 05:34 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |
西脇子午線マラソン 5km優勝!

12月10日、西脇子午線マラソンの5kmを走ってきました。

20'59”で、50歳以上女子の部1位でした。

 

 

当初は22分を切れたらいいな、と思っていました。

1km4'30”で22'30”です。

それより速く走りたい。

 

だけど、ペース走やインターバルをやって、もう少し速く走れるのではないか、と思いました。

そこで、最初の1kmは4’10で行ってみよう、と心に決めたのでした。

4'10イーブンで、20'50"です。

イーブンはちょっとムリかも。

でもなんとか、それに近づけたいと思っておりましたら、ギリギリ21’が切れました!

うれしい!

 

折り返しコースで、後半が上り坂ということで、

ちょっとなー、どうかなー、記録でないでしょ、とレース前は文句を言っていましたが、

走ってみるとやっぱり楽しいものですね。

 

30代も40代も男性も、5kmの部はみんな同時スタートなので、順位はゴールするまでわかりません。

練習会のようなペーサーもいません。

でもゴールするなり完走証をもらい、記録と順位がわかりました。すごいですね。

 

レース中は最適なペーサーを見つけることはできず、ガーミンの腕時計を頼りにせっせせっせと走りました。

 

1kmごとのペースは、

 

4’14

4’08

4’10

4’24
4’02

 

でした。

折り返しコースで、行きの2kmすぎが下り坂、

つまり4kmすぎが上り坂です。ペースががっくりと落ちていました。

そして最後の1kmが一番速かったです。

記録は、もうちょっといけるかな?

 

でも、わたくし、来季は800mに賭けております。

あまり長い距離にハマらないよう、スピードが鈍らないよう、気をつける所存です。

 

優勝賞品は、黒田庄和牛600g

帰宅してすぐに冷凍しました。

今夜はすき焼きです!

 

 

 

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 04:30 | ランニング | comments(2) | trackbacks(0) |
他人の目を受け入れる

もう一つのブログを紹介する際に「息子自慢と思われたら嫌だな」という葛藤がありました。

根が田舎者だからか、そういうところでどうも躊躇するクセがあります。

でも、迷ったらアクセルを踏む。

 

わたしの実家は、何度となく室内をリフォームしていて、それならいっそのこと建て直せば? と母に言ったところ、

「そんなことしたら、あの家は儲かっていると言われてしまうやろ」と血相を変えて反論しました。

たしかにそういう面もある、かも。狭い世界なんですね。

 

だけどわたしは都会の自営業者ですから、そんなことを気にしていたらやって行けません。

「息子自慢かよ!」と思う人と、思わない人、どっちを相手に商売しますかって話ですし、

そもそも「息子自慢かよ!」と思う人がどれくらいいるのかって話でもあります。

 

結局、どういう人にフォーカスするか、なんです。

自分を否定する人もいれば、肯定してくれる人もいる。

どっちに向けて発信するかを自分で選んでいる、と自覚することが大事なんだと思います。

 

そうはいってもやっぱり不安。

自分を肯定してくれる人はほんまにおるんかいな、って。

かなり空気を読まないわたしでも、時々不安になります。

もしかすると自分は一人ぼっちなんじゃないかと寂しくなることがある。

それはおそらく誰もが抱えている不安ですよね。

 

わたしが特に孤独を感じるのは、「恵まれている」と言われる時です。

そうなのかな。

わたし、それなりに努力もしているし、挫折もしているしな、と思ってしまう。

50歳を超えてもまだにそうなんです。

「恵まれている」と言われることが、なんとなくイヤ。

 

そこがわたしの壁です。

そここそ、客観的に見るべき。自分を遠くから見るべき。

なぜわたしが恵まれているように見えるのか。

見えるとしたら、どう振る舞えばいいのか。

 

恵まれているように見えることを受け入れないから、

無頓着な発言で、思いがけず人を傷つけてしまうことがある。

 

子育てがひと段落して仕事をそれなりにこなしているわたしに「働いたら?」と言われる

専業主婦の友だちはどう思うのか。

 

ランニングを再開して一年で「日本記録を狙う」と言い出すわたしに

「上を目指すのって楽しいよ!」と言われるマラソン歴10年の人はどう思うのか。

 

遠くから自分を眺めてみると、いろいろわかってきます。

わたしが、人から「恵まれている」と言われることに抵抗があるのは、自己評価が低いからです。

わたしなんて大したことないのに、なんでそう言われるのか、という反発がある。

 

「自分がどう見られるか」は、ほとんどの人が意識することだと思います。

遠くから自分を見る、というのは、自分がどう見られるかを気にすることとは全然違います。

「自分がどう見られるかを気にする自分」を見るってことなので。

 

と、うだうだ書いていますが、そもそも、ここまで「自分」に興味のある人も少ないと思います。

おまえ、ナルシストかよって、いつも自分で突っ込んでいます。

うんざりしている自分もいるにはいるショック

 

できれば、もう一つのブログのような淡々とした観察日記のような体裁にしたい。

でも、こういうことを書きたい欲がある限りはそこへ行けません。

書き続けることでしか先に進めないんですよね。

 

 

posted by 今泉愛子(詳細はクリック) | 07:04 | 人生 | comments(0) | trackbacks(0) |