自分自身の置かれた状況を特別だと思ってしまうと、なかなかその状況から抜け出せません。
仕事でも恋愛でも、あるいは家族の状況、友人との関係においても、
こんなにつらい経験をしているのは自分だけ、と思っていると、その状況に執着してしまう。
抜け出すきっかけを自ら潰すようなもの。
なぜ自分はこんなにひどい目に合わないといけないのか。
気が弱いから? 自信がないから? 美人じゃないから? 性格が暗いから?
そもそも環境が最悪。同僚とも気が合わない。
そんなふうに原因を探ったところで解決しない。
不幸な自分に酔うだけ。
「なぜ」にこだわるな、というのは、多くの自己啓発本がいうところです。
「なぜ」というのは、過去へのこだわり。変えられないことへの執着。
なぜあの人は私に意地悪をするのか。
なぜ私はブスなのか。
なぜ夫は自分に感謝してくれないのか。
なぜ私は運が悪いのか。
そういうことを考えても答えは見つからない。
見つからないものを考えても時間のムダ。
だけど考えてしまうのは、自分に酔っているから。
愚痴る人は、解決方法を提示しても喜びません。
でも、だって、と今の自分を肯定することを選びます。
つらい状況に耐えている自分が好き。
少しでも状況を変えたいなら、自分にこだわらないこと。
自分の不幸に酔わないこと。
自分が特別な状況に置かれていると思わない。
今の状況をすべて飲み込んだ上で、じゃあどうするかを考える。
私もずっとあらゆることにおいて原因探しをし続けて、ドツボにはまっていました。
自己主張がうまくないこと。
それゆえ、人から軽く見られること。
生い立ちだの性格だのあれこれ原因探しをしました。
この一年の「自分がランナーとして大成しなかった理由探し」はその最終章みたいな感じですが、
これだけは理由探しをしてよかったと思います。ダメなところから抜け出すきっかけになった。
というのは、徹底的に考え抜いたから。
要は、原因なんて何もない。
あるいは原因だらけで特定できない。
もちろん、指導者に恵まれた人の話を聞くと今でもうらやましいし、
練習環境、ライバルの存在、体型、資質、メンタル、運と
あらゆるものを自分と他人を比較して考えました。
だけど、いいこともあれば悪いこともあって、そのせめぎあいの中で人生はあって、
偶然とか運に翻弄されて、うまくいくこともあればうまくいかないこともあって、
そこにこだわる意味は、何もない。
何もないけど、もし抗うとしたら、それには強さが必要。
私にはその強さが欠けていた。
ただその強さの欠落というのは特別なことではないし、そこにこだわっても仕方ない。
素質があったのに、とかね、思いがちですよ。
思いがちだけど、そんな例はスポーツ界に山ほどあります。
ありがちな失敗例の一つに過ぎない。
それでようやく考えることに意味がないとわかった。
つねに「今」がスタート地点だから。
人生はいつだってやり直しがきく。
毎日同じことの繰り返しだったとしても、
今、やり方を変えればいい。
今、心の持ちようを変えるだけでいい。
毎日そうやって、新しい自分と出会う。