相手がどれだけ悪かったとしても、「ごめん」を強制してはいけないんだな、とよく思います。
ただ一言「ごめん」と言ってくれれば、それで気が済むのに、という場面は人生の中でたくさんあります。
だけど、謝ってほしいと願っている限り、心はさまよい続ける。
恋人との関係もそうでしょうし、親との関係もそうです。
夫や子どもとも同じ。
もちろん友だちや仕事関係者ともそう。
どうしても許せない。
たった一言あなたが謝ってくれればいいのよ、というのは、
要は、自分のモヤモヤの責任を相手に負わせるということ。
相手にだって都合があります。事情もあります。
性格だけの問題でもない。
親だったとしてもそうです。
それでもなんでもいいから、謝ってほしい!
そうやって相手を追い詰めるのはたいてい女ですね
でも、勝ちにいってはいけないんだな、と思います。
相手がどんなひどいことを自分にしたとしても。
自分によくしてくれなかった親に謝ってほしい、という気持ち、よくわかります。
本当にとてもよくわかります。
その気持ちを手放すことの難しさは、イコール人生の困難さだと思う。
でもそこをゴールにしてしまうと、永遠にゴールにたどり着けない。
一生さまよってしまう。
もちろん簡単に割り切れるものではなくて、傷を負った子供たちの誰もがなんとか克服しようともがくわけで、
だけどそれは、他人が何を言おうと、理屈でわかっていようと、克服できないこともあって、
忘れているつもりでも、何かの時にむくっと顔を出すこともある。
親の話になるとちょっとヘビーですね。
夫にします。
例えば「私の妊娠中に浮気した!」なんてことがあったりしますと、
それはもう圧倒的に、夫が悪いわけですが、
これを問い詰めると、夫は逃げ場がありません。
たまに、お詫びとしていろんな条件を提示して、奥さんに謝る男性もいるようです。
今後すべての収入は妻に開示して、使い道をすべて報告する、とかね。
そんなんやめなはれ。
許さない妻が悪い、というわけではないのですが、勝ち負けを決める方向に持ち込まない方が
お互いにとっていい。
もし私が妻だとしたら、夫を責めないと思います。
「さすがにちょっとひどいんちゃうの?」とは伝えますけど、問い詰めない。
というのは、ここで問い詰めたら圧勝してしまいます。
それは逆に人間関係をいびつにする気がする。
でも、もし私が夫だとしたら「許さない妻が悪い」と開き直ったりはしません。
妻が傷ついているのなら、誠心誠意謝ります。
当たり前です。
たとえ内心、次はもうちょっとうまくやろう、と思っていたとしても、です。
謝ることは、負けを認めることじゃなくて、相手への思いやりだから。
あまり反省もないまま口先だけで「ごめん」と言っても
鋭い妻ならそこできっと「反省してないでしょ!」と突っ込んできます。
「そんなことないよ!」と即否定します。
でもなんていうんでしょ。
そういう漫才みたいな夫婦がいい夫婦なんじゃないですかね。
勝ち負けを決めない関係は、深刻になりすぎない。
程よく打ち解けていて、程よく緊張感もあり、
わかりあえていないことを楽しめる。
人間関係では、勝つ勝負で、勝ちを取りにいってはいけない。
知らない方がいいこともいっぱいあります。
何があっても相手を責めない。
ひどい相手を責めるのではなく、
無邪気に相手を信じていた自分をかわいそうに思うのではなく、
過酷な運命を呪うのではなく、
全部受けて立つ。
相手が悪いのに、相手を責めない。
その場合「自分が悪いんだ」に持ち込んでしまうことがあります。
かくいう私もそれでした。
相手を責めることが苦手で、つい「私の態度がいけなかったんだ」と自分の責任にしてしまう。
浮気されたのは、私が悪かったのだ、的なやつです。
ありがち。
だけど、それだと苦しい。
勝負はつけなくていいの。
黒白つけない。
どっちかが悪いことにしたいという気持ちを捨てる。
誰が悪いかを判定すると、気持ちが楽になることもあります。
だけど、浮気した夫が悪い! と責め続けるか、
浮気された私にも反省点がある、と自分を責めるか。
結局どちらも誰かを責める点では同じ。
相手が悪いのか、自分が悪いのかを判断して心の置きどころを作るのではなく、
もう一段上の判定のない世界へ行く。
もちろん事例によりますよね。
あれは許せるけど、これは許せない。
その「許せる」「許せない」の判断が、問題の大きさとは必ずしも一致しなくて、
夫の浮気は許せたのに、
夫に買い物を頼んだ時お釣りをちょろまかされたことは許せなかったりする。
ワケがわからない。
でも、みんなそれぞれ。
そういう「いろいろ」を味わうってのが人生の面白さ。
夫婦でも友達でも親子でも、勝ちは取りにいかない。
人間関係って、いかに勝負のない世界に持ち込むか、ではないでしょうか。